下水に塗れた身体が、堪え難い悪臭を放っている。吸って、吐いて、吸って、吐いて。冷たいコンクリートの地面に背中を押し付けたまま、虎徹は深く息を吸い込む。下水道を泳いでいけば、そのうち運よく外へと逃げ出せるに違いない。そう考えて脱獄を試みたことを今さら後悔したところで、出口のない空間に閉じ込められているという現実から目を逸らすことは出来ない。

時は1726年。いつまで続くやも分からぬ不況に悩まされ続けた世界は資本主義経済を捨て、社会主義の独裁体制を良しとする風潮を創った。ピラミッドの最下層に押し込められた民衆は"働く為に生きる"ことを強いられ、耳を塞がれ、言葉を奪われ。少しでも官を悪く言えば、反逆者と見做され地下の牢へと放り込まれる。――"シリアルナンバー180・鏑木・T・虎徹"も、ピラミッドの底辺から地下へと蹴り落とされた民衆の中の一人だった。

「…………友恵」

血豆だらけの指に収められた、小さな小さな銀の指輪。国に医療費の援助を打ち切られたせいで、逝ってしまった最愛の妻。彼女を亡くしたその瞬間から、虎徹は政府に背を向けた。昼夜となく働かされ、過労で床に伏した途端、ボロ布のように棄てられた男。夫が遺した資本主義時代の遺産を根こそぎ奪い取られた女。多くの同士と肩を並べて、抗議のデモを繰り返した。……後少しだ。後少しで、奴らの裏の顔を暴き、言い逃れ出来ないところまで追い込むことが出来る。光のない袋小路に、風穴を開けることが……。

「ヘッ、なーんか感じ悪ィよなあ。逃げ出して行き着いた先がまさに袋小路って、笑えねえよ……はは……」

飢えに回想を遮られて、喉から乾いた笑いが零れる。外へと続く排水口には鉄の格子が嵌まっていて、とても抜けられそうにはない。壁には点検用の梯子が設置されているが、梯子の一番下の段は、頭上よりもまだ2メートルほど高い位置ある。近くに足場になるようなものはない。梯子の頂上、ぽかりと開いた正方形の穴は、何処へと続いているのだろうか。あそこまで辿り付ければ、脱出したも同然だろうに。

「…………腹減ったなあ」

ハンバーガー、ホットドック、ピザ、ステーキ。瞼の裏側を流れていくのは、虎徹の大好物ばかりだ。汚水の中を泳ぎ疲れて朦朧とする意識の中で、焼けた肉の匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。下水の臭いを肉の匂いに置き換えることが出来るとは。想像力が豊かすぎれにも程がある。

「…………ん?」

その時わずかに届いた煙を、虎徹は決して見逃さなかった。梯子の真横に添え付けられた、プロペラ式の換気扇。煙はそこからこちら側へと、ゆっくり流れ込んでいる。目を閉じて耳を澄ます。微かに鼻歌が聞こえる。……若い男の声だ。彼が口ずさんでいるのは、遠い昔に流行ったオペラ。醜い容姿の怪人が想い人に捧げた悲しい悲しい恋の歌だ。

「なあ!俺の頼みを聞いてくれないか!」
「――誰だ!どこにいる!」

隠れていたって餓死するだけだ。万に一つでも助かる可能性があるのならば、そこに全てを賭けるしかない。虎徹は喉を引き絞りながら、再度、男に呼び掛けた。換気扇の外側にいること、下水に流されてここまで辿り着いたこと、迷惑でなければ水と食料を少しだけ譲って欲しいということ。虎徹が全て話し終わるまで、男は何も言わなかった。虎徹が全て話し終わっても、無音の時間は長く続いた。コンクリートの布団の上にくたりと四肢を放り投げて、粘つく瞼の幕を下ろす。当然の結末だ。怪しむな、助けてくれと言ったところで、誰が素直に手を貸すものか。友恵が病に倒れた時だって、"他人"は氷のように冷たかったじゃないか。

「………………」

――ガン、ガタン。気が遠くなるような沈黙のなか意識を手放しかけた虎徹は、突如響いた大きな音に驚いて半身をのけ反らせた。足元に落ちた破片は、プラスチックのプロペラの一部だった。かつて"換気扇"だった穴からからのろのろと下りてきた籠の中には、よく冷えた水の瓶と牛乳の瓶。湯気が立ち上るビーフシチューに、真新しいバスタオルが二枚。

「それだけでこと足りますか。他に必要なものはありませんか」
「…………」
「聞こえますか?」
「っ……ああ、ああ!聞こえるよ!これ、ありがとな!そうだ、お前……名前は?」
「……バーナビーです。僕はバーナビ・ブルックスJr」

勢いよく飲み干した水が、乾いた喉を下っていく。バーナビーと名乗った男は、恩着せがましい言葉を吐くでも虎徹を詮索するでもなく淡々と会話を済ませると、何事も無かったかのように換気扇を嵌め直して、それきりそのまま消えてしまった。コンクリートの床にはプロペラが一枚と籠が一つ、そして涙の跡が複数。1727年、秋。流れ着いた男・虎徹と地下に暮らす男・バーナビーの運命の歯車は、ここから大きく廻り始める。





厚手の毛布と古びたカンテラ、ノートが一冊、ペンが二本。頼りなく揺れる蝋燭の下、虎徹は奥歯を噛み締める。行動を起こす時には必ず"準備"をしておかなければならない。情報・体力。最低でも、その二つは押さえておきたいところだ。

「情報、か…………」

換気扇の向こう側にいる男に協力を仰いだところで、有益な情報が得られる可能性は低い。二度目に言葉を交わした時、彼は虎徹にこう言ったのだ。『僕は、赤ん坊の時にこの地下室へと連れて来られました。それからは一度も、この部屋を出たことがありません。死なない程度の援助はしますが、それ以上の手助けは期待しない方がいい』――と。
虎徹は当初、彼が自分達と同じように地下牢へ閉じ込められているのだとばかり考えていたが、日にち二度降りてくる籠の中身を見ているうちに、それは間違いだと気が付いた。届く食事も援助の品も、質は決して悪くない。むしろ上等、それもかなりの高級品だ。こんなものを気軽に扱えるのは、ピラミッドの上方に立つ一部の権力者だけだろう。幼子を地下に幽閉し、上等なものだけを与えて生かす。そのことに、一体何の意味があるのか。
考えごとをする時に、足の裏を擦り合わせるのが虎徹の癖のひとつだ。今も、無意識に足が動いている。ざりざりと、砂の擦る乾いた音が反響する。虎徹は地下での生活が嫌いだ。太陽の光を浴び、波が遊ぶ音に耳を貸し、草原を思いきり駆け巡りたいと思っている。だが、それは虎徹が元より"そこに生きていたからこそ"思うことで、彼はそうではないのかもしれない。要は、宇宙から来た宇宙人に「地球より僕の星の方がいいよ」と言われても、俄かには「そう」とは思えないのと、同じこと。

ざり、ざり。断続的に鳴り続く音を断ち切ったのは、換気扇を外す時に鳴る大きな音だった。気付けば、夕食の時間になっていたようだ。虎徹は筋肉の浮いた腹を撫でて、わき出た唾をごくりと飲み込む。

「なあ」
「…………何か?」
「お前の世話をしてる奴って、一体どんな人間なんだ?」
「言いませんよ」
「性格悪いんだなあ、お前」
「…………」
「だっ、嘘!冗談です、籠上げないで!」
「…………僕の世話をしてくれている人は、僕のただ一人の理解者なんです。怪物のように醜く生れついた僕は、両親に疎まれ蔑まれていた。あの人はそんな醜くい僕を両親の手から救い出し、容姿を気にすることなく、本当の子供のように愛してくれた人だ」
「お前…………」
「同情ならいりませんよ。僕はそれが一番嫌いだ」

カンテラの炎が微かに揺らめき、下水の臭いに香ばしい肉の匂いが重なる。地下の収容所で暮らす仲間に、醜い容姿でひどく虐められている男がいた。人一倍よく働いて、人一倍心優しかったが、それでも彼を罵る者は絶えなかった。

「どうせ死んだら骨になるんだ。俺は面の皮なんてどうだっていーよ。その男がお前の命の恩人なら、お前は俺の命の恩人だ。……ありがとうな」
「……甘い男だな」

急に笑いが込み上げてきて、喉の根本がひくひく引き攣る。虎徹は彼の顔を知らないし、彼だって虎徹の顔を知らない。コンクリートの壁を介している以上、容姿は何の意味もなさない。いかにも潔癖そうな奴が、悪臭を放つヘドロを身に纏った虎徹を見たら、どれほど嫌な顔をするだろうか。





最初の垣根が壊れてからあと、二人の距離が縮まるのに多くの時間は掛からなかった。虎徹が外の惨状を話すと、彼はそのたび憤怒した。バーナビー、二十三歳。彼は驚くほど博識で、音楽や文学に関することは辞書よりもずっと詳しく語った。

「海の水は塩っ辛いんだぞ」
「そのくらい知ってますよ。コップに塩を入れて海水もどきを作ったことだってあります」
「じゃあ、砂浜の砂が熱いのは知ってるか?走るとな、足の裏に貝殻が突き刺さって熱いわ痛いわですげーんだ」
「……砂浜」

閉じた瞼の裏側に、無数の砂が飛散する。妻が元気だった頃に、二人で行った秋の砂浜。さざめく波が浜を走り、枝で描いた絵がそれに連れ去られて――意味もなく顔を見合わせたまま、腹を抱えて笑いあった。友恵は海が好きだったけれど、バーナビーはどうなのだろう。無意識のうちに二人を並べて考えていることを、少しも不思議に思わないまま、虎徹は壁に耳を添えた。地獄のような環境に身を置いている筈なのに、心は静かに安らいでいる。情報は何も得られていないが、体力はもう万全だ。食事四十二回分、約三週間。いつまでもここで管を巻いている訳にはいかない。

「あ、悪い……」
「ああ、もう、またですか」

虎徹はわざと紐を引くと、それを手元に手繰り寄せた。疑われないよう、三回。引いて落とした紐を結えば、虎徹の体重を支えられるロープを作ることが出来る。完成したロープの先には、あらかじめカンテラの蓋の持ち手を結び付けておく。鉄製のカンテラ蓋は投げ上げるのにちょうどいい重さで、尚且つ"引っ掛かりやすい。梯子の最下段にロープを掛け、落ちてきた蓋の持ち手穴に反対側のロープ端を通し、引く。持ち上がった蓋は梯子に掛かり――即席の上り紐の完成だ。
試しに二・三度引いてみて、その確かな感触に安堵の溜め息を零す。バーナビーが床へついた頃にでも、梯子の先を確かめてみよう。別れを告げるのはその後でいい。今はまだ、言う必要はない。

「あの、さ」
「何ですか?」
「……お前、さ。外、行ってみたくないか?自分の目で見る砂浜は綺麗だぞ?太陽が反射して、キラキラ光るんだ」
「…………僕は、いい。ここがいいです。ここは穏やかで、平和だから」予想していた答えだ。バーナビーは今の暮らしに不満を覚えていない。混沌とした世界に彼を連れだしても、そこで幸せに出来るという確証はない。不意に胸の奥が痛んで、眼球の奥が熱くなる。虎徹は、バーナビーを連れて行きたいのだ。離れたくない、と。顔も知らぬ相手に対して、心がそう叫んでいる。

「そうか……そう、だよな」

粘つく髪を撫で上げて、虎徹は低く嘲笑った。涙を拭う。唇に触れた塩の味は、海のそれとよく似ている。





一歩、また一歩と。裸足の足で壁を蹴り付け、ゆっくりゆっくり紐を引く。腕の力だけで上るのは難しいが、壁があるとそれほど苦にはならない。百パーセントの体力で挑んだのだから、なおさら事はうまくいく。ものの三分ほどで、虎徹の手が一番下の梯子に触れた。冷たいそれを握り込み、反対側の手も伸ばす。懸垂をする時のように腕を折り曲げ、壁を蹴ってもうひとつ上の梯子を掴む。そこから後は上るだけだ。眼下に汚れた毛布が見える。

「っは、はー……」

どすん、と洞に身体を横たえ、虎徹は犬歯を剥いて笑った。成功だ。頭の中のイメージよりも、ずっとずっと簡単だった。狭くて四角い空間は、蛇の巣穴のようにどこまでもどこまでも続いている。やはり、通風孔か何かなのだろう。今はただ、信じて前に進むしかない。

「…………」

息を殺して這いつくばって、暗闇の中を進んでいく。穴は右へ左へと曲がり、行き着く先の予想もつかない。不安を殺し殺し行く虎徹の瞳にぼんやりとした明かりが届いたのは、穴に入ってから十分が過ぎた頃だった。……プラスチック製の格子の下には……部屋?
恐る恐る覗き込んで、様子を伺う。本棚、テーブル、高い天窓。大きなベッドは人の身体で盛り上がり、時折、布団が上下している。それがバーナビーだと気付いた時、虎徹は殆ど本能のまま、身体ごと前に乗り出していた。

「だっ、えっ、ま――!」

待てと言われて待つ奴はいない。しかも相手は無機物だ。無機物に頼みを聞く耳はない。劣化したプラスチックは、虎徹の体重を支え切れずに崩れ落ちた。虎徹は、破片ごと布団の上に。落ちて、何かを下敷きにする。

「――!っ貴様、何者だ!」

壁越しに聞き慣れた声。何度も笑い合った相手が、今、目の前にいる。汚れきった身体であることも忘れて、虎徹は胸を高鳴らせた。恋だ。これは紛れもなく恋だ。

「だっ、違っ、俺だよ俺!お前に助けてもらった虎徹!分かるだろ?」
「…………!」
「袋小路から脱出しようとして、通風孔からこの部屋に落ちたんだよ!」

明かりの落ちた部屋の中、耳のすぐ近くで息を飲み込む音が響いた。布団越しに触れた身体は固く、ほのかに甘い香りがする。同じように隔てられていても。布団と壁では、何から何まで段違いだ。

「……シャワー」
「えっ?」
「浴びてきて下さい。右手側のドアの向こうにありますから。服はチェストの中から好きなものを着て頂いて構いません。下着は、未使用のものが同じチェストの一番下の段にあります」
「あ……ああ。」

闇に慣れた目に、布団を被ったまま動こうとしないバーナビーの姿が映る。触れようと手を伸ばし、思い直して指を縮める。浮足立っていた気持ちが早回しのテープのようにふにゃりと萎え衰えていく。

「怪我、ないか……?」

布団の塊は動かなかった。数秒置いてから返ってきたのは、「大丈夫です」という飾り気のない一言だけで。その素っ気なさに、虎徹は黙って天を仰ぐ。散々世話になった挙げ句、(不慮の事故とはいえ)プライベートルームにまで踏み込んでしまったのだ。身奇麗にしていたならまだしも、ヘドロに塗れた汚い身体で鼻の先まで近付かれて、気分を害さない人間はいない。
虎徹は冷たい床を分厚い足の裏で踏みつけながら脇目も振らずに扉を目指した。何にせよ、シャワーと着替えを貸して貰えるのはこの上なくありがたいことだ。収容所のシャワーは真冬でも冷水しか出なかった。温かいお湯に触れるのは、涙が出るほど久しぶりだ。

小さな脱衣所の中には、洗面台と浴室に続くドアがあった。洗面台の鏡は取り外されている。磨きあげられたバスタブは、手足が伸ばせるほど大きい。虎徹は湯温を熱めの42度、湯量を最大に設定して、バスタブに目一杯お湯を張った。

「くーっ!」

恐る恐る足を浸けて、その心地よさに動物じみた咆哮を漏らす。透明だった湯は、瞬く間にどす黒く色を変えた。虎徹が皮膚を擦る度に、削げ落ちた垢がバスタブを泳ぐ。棚に並んだボディーソープやシャンプーは、手を出すのも憚られるほどの最高級品で、バーナビーの暮らしの良さに思わず感嘆の息が漏れる。きっと、桁違いの金持ちに面倒を見てもらっているのだろう。国の要人か、資本主義時代の富裕層の残党か――どちらにせよ"金持ちの中にも心のある人間がいる"という事実に気持ちが救われる。澱みきった湯を捨て、空になったバスタブの中でシャワーを浴び直しながら、虎徹はぽきりと指を鳴らした。まだだ。まだ、挽回のチャンスを逃してはいない。





シャワーを浴び終えた虎徹は、まず初めにチェストの引き出しを開けた。ここは甚だ図々しく、一番質の良さそうな服を選んでおいた方がいい。脱走の噂は、地下だけでなく地上にも広まっている筈だ。やたら目敏い政府の犬も、脱走者が上質な衣類を身に纏って街に現れるとは、夢にも思わないだろう。緑色をしたYシャツの上に袖無しベストを羽織りながら、虎徹は指で顎を擦る。この伸び放題の髭も、人相のカムフラージュに一役買ってくれるかもしれない。

「はー、さっぱりした!」

垢と一緒に憂鬱まで洗い流したような清い気分だ。清潔なタオルで髪の滴を拭いながら、虎徹はベッドにどかりとその腰を下ろした。スプリングの効いたマットが、体重を受けて僅かに軋む。布団の中の芋虫が、軋みを受けて僅かに跳ねる。虎徹の口角が、笑みの形に持ち上がった。

「バーナビー、シャワーありがとな」
「…………いえ」
「服と、あと飯も。すげー助かったよ。ありがとな」
「…………別に」

以前は壁、今は布団に阻まれて、バーナビーの表情を覗き見ることさえ叶わない。簡単に途切れるぎこちない会話は、初めてのデートに繰り出した初心な男女のそれとよく似ている。聞きたいこと、伝えたいことは星の数ほど溢れているのに、いざ言葉にしようとすると舌が素直に動かなくなるのだ。琥珀色の瞳に不安の舟を浮かべて、溜め息混じりに天井を見上げる。明かりの落ちた部屋の中、ぼんやりと浮かぶ通風孔の影――。

「なあ」
「…………」
「俺がここを出てくまで、そっから顔出してくんねーの?」

虎徹は、きつく握った拳の先で悪戯にベッドの端を叩くと、無理に作った軽い口調で素直な気持ちを吐き出した。地下特有の湿った空気が、辺りに漂っている。

「他人に顔を見られるのは嫌なんです」
「俺、若い頃は結構イケてたんだぞ?演技力があればアイドルも夢じゃないってキャーキャー言われてたんだよ、マジで。……どうだ?気になるだろ、俺の顔、見たくなってきただろ?」
「いいえ、全く」
「つれねえなあ」
「放っておいて下さい。……はあ。あなたって、もしかしてそういう趣味の人なんですか?」
「何だよそれ」
「僕、前に言いましたよね。とても醜い容姿をしてるって。なのに何で、わざわざ顔を見たがるんです?見て快いものじゃないことくらい、容易に想像が付くでしょう?」
「綺麗とか汚いとか、そういうのは主観の問題だろ?俺はお前のことを醜いとは思わない」
「そんなのは綺麗事だ!」
「そう思うなら出てこいよ。俺の言うことが正しいってこと、嫌っちゅーほど実感させてやるからさ」

刹那、全ての音が止まった。呼吸音さえ届かぬ闇に、突如まばゆい明かりが点る。サイドテーブルの上の読書灯に光を与えたのは、雪のように白い腕だった。シーツの隙間から覗いた金色の髪が、躊躇うように何度も震える。

「…………!」

感覚は主観だ。観念したように顔を出したバーナビーは、俯いたまま唇を噛みしめると、綺麗な手で顔を覆い隠した。力無く垂れた虎徹の両腕を、冷たい戦慄が駆け上がる。彼を「醜い」と罵ったのは、本当に両親だったのだろうか。彼は信頼する男にずっと、騙されていたのではないだろうか。

「全っ然、醜くなんてねえじゃねえか……お前、すげえ美人だよ……」

恐る恐る伸ばした腕で、震える身体を抱きしめる。程よく筋肉のついた身体は温かく、仄かに甘い香りがする。「バーナビー」と名を呼び掛けると、彼は顔から手を外して、虎徹の背中を抱き返した。柔らかい頬が頬に触れ、温かい滴が虎徹にも伝わる。バーナビーは泣いていた。泣いていたけれど、それ以上に笑っていた。

「俺と一緒に行こう」

子供のように無垢な瞳が、迷いを断ち切り虎徹を選んだ。





ベッドの上に倒した本棚を足場代わりにして、通風孔から部屋を抜け出す。小さなライターで辺りを照らしながら、なるべく音を立てないよう、ゆっくりゆっくり先へと進む。地下に幽閉されていたバーナビーは、虎徹よりも格段に疲れやすかった。大丈夫か。そう問い掛ける言葉の代わりに、身体を止めて振り返る。額に汗を滲ませたバーナビーが、微笑んで頷くの確認して、また一歩。答えなき道はどこまでも続き、外の明かりが見えてくる頃には、二人ともがあちこち痣をこさえていた。

「辛くないか」
「…………はい」

通風孔を抜けて出た先は、寂れた廃工場だった。地面にこびりついた離型剤や放置された加硫缶から察するに、自動車部品を作るか何かしていたのだろう。
凝り固まった肩を回しながら、虎徹はバーナビーの手を掴んだ。汗ばんだ温かい掌。太陽の元で見る彼は、地下にいる時よりもずっとずっと綺麗に見える。

「どこに行くんですか」
「隠れ家だよ」
「……虎徹さんの」
「正確には俺と俺の仲間、だな」

反政府組織の基地は、小さな酒屋の屋根裏にある。参加メンバーは経営者に学生、タクシードライバーに科学者と個性豊かだ。

「行こう」

繋いだ手を離さないまま、虎徹は犬歯を剥いて笑った。守るものが出来た男に、恐れるものは何もない。




硝子のない窓越しに見上げた空は、写真の中で見たそれよりもずっとずっと綺麗な色をしていた。太陽の光が眼球に染みて、目尻を熱い涙が汚す。身体が鈍りきってしまわないようにと、筋力トレーニングを欠かさないでいたが、慣れない蒲伏前進と工場内に蔓延する工業油の臭いにやられて、今にも意識が消え落ちてしまいそうだ。バーナビーは、自らの右手を引いて歩く男の背中に視線を向けて、それから小さく名前を呼んだ。虎徹さん。その声は風の音にさえ負けてしまうのではないかと不安になるほどに弱々しく掠れていたけれど、虎徹はまるで当たり前だと言わんばかりに、その声を聞き留めて優しい笑顔を返してくれた。

「どうした?辛いのか?」
「……すみません。足が……」
「そうか、無理させてごめんな。まだ先は長いんだ、休みながらいかねえと後から余計に体力を消耗しちまうからな」
「すみません」
「いや、俺もそろそろ休憩にしないかって言おうと思ってたところだったんだ。丁度よかったよ」

錆ついた階段に腰を下ろした虎徹の息は、ほんの僅かにも乱れてはいなかった。引き寄せられるがままに虎徹の隣へと座り込んだバーナビーは、改めてまじまじとその男らしい横顔を見つめる。彼は"格好いい"のだろうか。醜いバーナビーとは骨格の造りからして異なっているように思えるが、世間と画されて生きてきたバーナビーには、それを判断する基準さえ供わっていないのだ。籠の中の鳥に、籠の外から飛び込んできた鳥と他の鳥とを比べることなど出来よう筈もない。
延々と注がれ続ける熱い視線に、虎徹は何を思ったのだろう。冷えきった鉄製の段の上で繋いだままの手を強く握り直した彼は、子供を相手にするときのような甘くも優しい低音で、バーナビーにこう言いきった。

「お前の目、綺麗な色してんなあ」
「目?」
「ん。緑でキラキラしてて、すげー綺麗だ」
「……やめて下さい。そんな風に気を遣われても、逆にみじめなだけですから」

容姿のことを口に出されて、意図せず語調が強くなる。ずっと握り合ったままにしていた手を強引に振りほどくと、虎徹はそこで初めてバーナビーの心の傷を土足で踏みつけてしまったことに気付いたのか、目に見えて狼狽えた顔になった。油臭い風と埃にまみれた床、決して重ならない二つの視線。ごめん、でも、と言いかけて再び口を閉じた虎徹の頬に本能的な不安の影を感じ取って、バーナビーはわざと明るく振るまった。一緒に行こうと誘いかけたのは虎徹だが、その手を取って共に行くと決めたのは、他ならぬバーナビ自身なのだ。誰にも傷つけられないで生きていける場所を棄てて虎徹を選びとったことにあえて理由をつけるとすれば、彼に"強く惹かれたから"だ。とはいえ、どこに惹かれたのかと聞かれれば、答えに窮してしまうけれど――。

「虎徹さん」
「おう」
「虎徹さんは、どうして僕を外に連れだしてくれたんですか?僕なんて足出まといになるだけでしょう、なのに……」
「……何でだろうな。よく分かんねえ」
「理由もないのに、リスクを負うような道を選んだ、と?」
「だーっ!難しい話は止めろって!俺、そういうの苦手なんだよ!」
「……すみません」
「……馬鹿、謝るなよ」
「すみません」

虎徹の唇から、深い溜め息の音が聞こえ漏れた。バーナビーは俯いて首を左右に降る。壁越しに言葉を交わしていた時分には、もっと気楽に会話を楽しむことができていた筈なのに、今は"虎徹の顔が近くにある"と意識した途端、それ以外に何も考えられなくなってしまう。虎徹を困らせたくはない。嫌われるのはもっと御免だ。強い熱を持って痛む両の脛を冷えた掌で撫で擦りながら、バーナビーは必死に言葉を探す。謝るなと言われて謝ったことを謝る言葉。そんなものがこの世に存在する筈もないのに。

「歩けそうか?」
「はい」
「うし、そんじゃ行くとしますか」

そう言って立ち上がった虎徹が何でもないことのように差し出した右の掌を、バーナビーは迷うことなく握り返した。虎徹の手は温かい。力強くて優しいのにところどころささくれていて、まるで虎徹自身をそのまま手の中に閉じ込めているのではないかと勘繰らにずはいられないほどに、彼の人柄をよく表している。踊り場に溜まった雨水の中に映り込んだ"醜い"顔から視線を外して、バーナビーはきつく唇を噛み締めた。壁越しに言葉を交わしていた頃の方が饒舌だったのは、なにもバーナビーだけに限ったことではない。虎徹も同じだ。――この世界から視覚という感覚が存在ごと消え去ってしまえばいいと願うのは、浅はかなこと――なのだろうか。




「失礼します。朝食をお持ち……」





時を同じくして、朝食の入った籠を片手に地下室を訪れた男は、そこにいる筈の青年が忽然と姿を消していることに気が付いて身を強ばらせた。"彼"が何者なのか、何故ここに軟禁されているのか、下っ端の男には何一つ知らされていなかったが、あの温和なマーベリック氏が鬼気迫る表情で執拗に「何があっても、絶対に彼をこの部屋から出すな」と繰り返すほどなのだから、よほど何かあるのだろう。
男は後ろを振り返ると、手始めに鍵穴を覗いた。分厚い扉には旧式の回し鍵と3キロもある鉄の閂でしっかりと鍵が掛けられていた。鍵穴にも傷が付いていないことから、彼がこの扉を開けて出て行った可能性は限りなくゼロに近い筈だ。続いて男は部屋の奥のバスルームに足を踏み入れた。高級ホテルを彷彿とさせる内装から、マーベリックの趣味を窺い知ることができる。一見すると何の変哲もないように見受けられるが……一点、シャワーヘッドにドブ臭い汚れが付着しているのがどうしようもなく気にかかる。この地下室の中に、ヘドロが発生するような場所があるとはとても思えない。キッチンの壁が下水道に面していると前任者から説明を受けたような気がするが、大柄な体格の青年が、たった一つの通り道である極小の換気扇を潜れる筈も……。
そこまで考えて、男はハッと顔を上げた。バスルームから飛び出して部屋の中を駆け、本棚の最下段で見つけた"それ"を裏返し、そこに先ほど見たものと同じ臭いのする泥汚れがあるのを確認して、男は魂の抜けるような深い溜め息を吐いた。──やられた。予兆は、何週間も前から現れていたのだ。

『この籠を頂いても構いませんか。これ、読みかけの本を持ち運ぶのにとても便利なんです』

この地下室にネズミが入り、マーベリックの稚児を咥えて逃げた。たったそれだけのことが今、男の命を静かに脅かしている。男は神に祈る思いで、空の見えない天井を見上げた。そこには蓋の外れた通風口があり、まるで見え透いた未来をあざ笑うかのようにうおんうおんと、不気味と雄叫びを上げていた。





ここだ、と示された壁に扉はなく、壁の前には古びた酒樽が5つほど、無造作に並んでいるだけだった。バーナビーは汗ばんだ頬を黒く汚れた拳でぐいと拭うと、隣に立つ虎徹に向かって物言いたげに顔を歪めた。だが、その唇から言葉が発せられることはなく、代わりに白い喉が鳴った。道なき道を行くこと3時間、けろりとした顔で立つ虎徹とは裏腹に、バーナビーはもう声を出すことすら出来なかった。

「俺の家、っつーか隠れ家、だな。仲間もいるんだ。紹介するよ」
(どこが隠れ家の入り口ですか)
「へっ?何?」
(入り口!)

口の形だけで意思を伝えようとするバーナビーに気付いた虎徹は、顔をくしゃくしゃにしてわらうと、改めてここだと樽を叩いた。よく見ると、右から2つ目の樽だけ栓の部分が外されている。虎徹は樽の裏からバルブを探りとると、慣れた手付きでそれを回した。樽の中には使い込まれた縄梯子が掛けられている。

「行くぞ」

長い時間繋いだままにしていた手が、ここで漸く一度離れた。バーナビーが付いて来るに違いないと信じ込んでいるのだろう。虎徹は後ろを振り向きもせず、さっさと梯子を降りていってしまう。仲間。虎徹にとってはそうかもしれないが、バーナビーにとっては見知らぬ他人だ。気遣えというつもりはないが、仲間との再会が嬉しいと言わんばかりに消えていった虎徹の背中を見ると、何とも言えない気持ちになる。バーナビーは眼鏡の弦を正すと、意を決して樽の端を掴んだ。ひやりとした木の感触が、掌に心地良い。
ぎし、ぎしと縄を踏み、3メートル程下降すると、ぷんと黴の臭いのする、狭苦しい通路に足が着いた。先に来ていた虎徹がランプに火を灯しながら「昔は倉庫だったんだ。政治が狂って廃業する前」と他人ごとのように呟いたのを聞いて、バーナビーは神妙に頷く。外の世界は虎徹にとって、決して優しくないのだろう。
短い廊下の先には、扉が3つ並んでいた。一番右がシャワールーム、後の2つがリビングとベッドルームだと、虎徹が簡潔に説明する。展示の角には蜘蛛の巣が張り、積み上げた木箱は埃だらけだが、虎徹は気に留める様子もない。汚い、とは思うが、咎め立ててどうとなるわけでもないだろう。少なくとも自分よりは綺麗、そう思うと大概のことは許せる。

「ローズ!パイソン!いないのか?俺だ、帰ってきたぞ!」

扉の前で虎徹が叫ぶのと、扉が開くのとに殆ど時間の差はなかった。中央の鉄扉がばんと音を立て、中から女性が飛び出してくる。彼女はバーナビーに目をくれることもなく、真っ直ぐ虎徹に抱き付いた。バーナビーはその光景を目の当たりにして、古い無声映画を思い出した。戦場から帰ってきた恋人を迎える女とまるで同じだ。彼女は、虎徹の恋人なのだろうか。

「だっ!馬鹿、お前なあ、いきなり飛びついてきたら危ねーだろ!」
「馬鹿はどっちよ!捕まったっきり連絡もしてこないで、こっちの気も知らないで勝手に帰ってきて……!」
「仕方ないだろ、色々あったんだよ」
「っ、みんな、心配してたんだから……!」

困り顔で頭を掻く虎徹の周りに、瞬く間に人の輪ができた。年齢も性別も様々だが、彼らは皆一様に虎徹の帰還を喜んでいる。人間関係の希薄なバーナビーにはそれが"普通のこと"なのかどうか計り知ることさえ出来ないが、入り込めない空気が立ち込めていることは確かだ。
出て行こうか、どうしようかと逡巡し始めたバーナビーは、音もなく近寄って来た影の存在に少しも気が付かなかった。

「ねェ」
「っ、う、わっ!」
「どうした、バーナビー!?」

耳に野太い声が吹き込まれた瞬間、驚いて悲鳴を上げてしまったバーナビーだったが、彼を更に驚かせたのは、虎徹の意外な反応だった。悲鳴とは名ばかりの掠れた声をほんの少し零しただけだというのに、虎徹はまるで騎士の如くバーナビーの側に駆け寄ってきた。騎士というよりも、足元の覚束ない子供を見守る母といった方が、より相応しいかもしれない。バーナビーに声を掛けた男性──あるいは女性──は、威嚇するような虎徹の視線を真っ直ぐに受けると、臆することなく噛みつき返した。

「ちょっとォ、なんでアタシが何かしたみたいな空気なのよォ!新入りのキュートな子に挨拶しようとしただけじゃないの!」
「やめろって!こいつ人慣れしてねえんだよ」
「……………」
「悪いな、騒がしくて。……びっくりしたか?」
「大丈夫です。驚きはしましたけど」
「疲れただろ?奥に俺のベッドがあるから、そこで身体休めてろよ。……あ、先にシャワー浴びるか?ぬるま湯しか出ないけどないよりはマシだろ」
「ありがとうございます、虎徹さん」 

大きな掌で頭を撫でられることにも、いつの間にかすっかりと慣れきってしまった。虎徹は目尻を下げて笑うと、木箱の中から使い古しの布と服を取り出して、それをバーナビーに手渡した。バーナビーはそれを「席を外して欲しい」という暗喩だと受け取って、素直に奥の部屋へと向かった。道中、あの虎徹に抱きついていた女性に胡乱な視線を向けられて、足を止める。

「僕に何か?」
「──別に!」

好意的な態度には到底見えない。彼女はバーナビーの顔に視線を向けると、それ以上なにも喋ることなく顔をしかめて俯いてしまった。鉛のように重い空気が、ひりつく喉を押しのけて肺まで転がり落ちる。視線は嘘を吐かない。そんなにこの面の皮が醜いのか。

「右端がバスルーム、左端がベッドルームだからな。分からないことがあったら、真ん中の部屋に来いよ!」
「はい」

興味津々といった顔で見つめてくる周囲に頭を下げて、バーナビーは扉のノブに手を掛けた。虎徹は相も変わらず、穏やかに微笑んでいる。けれど、バーナビーは作り笑顔でさえ、彼に"微笑み返せなかった"。


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