マーベリック・虎×兎
捏造鬱注意















もうずっと長い間、夢を見ていないような気がする。広いベッドに身体を横たえ、泥のように睡眠を貪り、朝日と共に目を覚まして、何をするでもなくぼんやりと一日を消化する。本当は外に出て"あの人"に恩返しをしたいのだけれど、身体が万全でない以上、どうすることも出来はしない。優しい"あの人"は「仕方がない」と笑って許してくれるけれど、何となく、今のままではいけないような気がしている。――今のままでは、いけないような。



「よく眠れたかな」



そう問い掛けると、彼は穏やかな笑顔で小さく頷いて、それからことんと首を傾げた。朝から私が"ここ"にいることが珍しいとでも言いたいのだろう。疑問を投げかけられるよりも先に「今日は午後から仕事なんだよ」と教えてやると、彼は長い睫毛に覆われた瞼を見開き、子供のように「嬉しい」と笑った。
改竄に改竄を重ねた記憶は、ある日突然、積木のようにガラガラと崩れた。あの理知的で真面目だったバーナビー・ブルックスJrの面影を、今の彼の中に見留めることは難しい。精神年齢は十歳か、十二歳か。大きく見積もってもその程度だ。大人の姿をした子供のようなものとでも考えて貰えればいい。
突如として姿を消したバーナビーに、世間は驚きを隠さなかった。事件か事故か、彼自身の意思か。証拠ひとつ残さないまま煙のように消えたヒーローは、暫くメディアの話題を独占し続けたが、一切の続報が無い以上、そこから先へ広がることはない。裏から手を回して大きな事件を立て続けに発生させたことで、世間の注目はますます彼から引き離された。元は身寄りのない孤児だ。私のこの能力をもってすれば、彼一人をこの世界から切り離すことくらい造作もない事なのだ。

「ホットケーキを食べるかい」
「食べたいです」
「すぐに焼くからそこで待っていなさい。フルーツと生クリームも添えて欲しいだろう?」
「ありがとうございます、マーベリックさん」

母親に似た金色の髪。父親に似た長い手足。バーナビーは、何もかもが完璧な私だけの芸術品だ。殺してしまうには惜しい存在、だから手元に残しておく。愛情?――そんなものはない。見せ掛けの愛情で上面を取り繕っていただけで、私は微塵も彼を愛してなどいない。
スリッパを鳴らして遠ざかっていく背中を見つめていた私のポケットの中で、不意に携帯電話が鳴った。休暇を取っている時は秘書に回せと言っている筈だが。企業のトップともなれば、休みが休みとしての機能を果たさないことも多い。私は低く喉を鳴らして、携帯電話の通話ボタンに指を伸ばした。通話口から耳に届いた、品のない口調、忌ま忌ましい声。どうしてこんな輩をバーナビーの相棒として引き取ったのか。私は今でも、それだけを強く後悔している。

『すみません、社長。ワイルドタイガー……鏑木虎徹です』
「ああ、分かっているよ。どうしたんだい?」
『あ、いや……相変わらずバニーからの連絡は無いんですかね。居場所が分かったとか目撃情報とか何か……』
「残念ながら、何もないよ。私も手を尽くしているんだがね。失踪してもう一年……そろそろ観念した方がいいのかもしれないな」
『弱気にならないで下さい!アイツのことだからきっと、きっとどこかで元気にやってますよ。俺は絶対に諦めません。バニーが帰ってくるまで何年でも、何十年でも待つつもりです。だから社長もバニーのこと、信じて待っていて下さい。俺が必ず、アイツを連れて帰ってきますから』
「…………」

たかが一年そこら一緒にいただけで、すっかり相棒気取りのこの男。直前にバーナビーと派手な喧嘩をしたらしいが、そのことを気に病んでいるのかいやに執念深くて困る。妙に勘がいいせいで、記憶を改竄出来ないまま今日まで来てしまったが、いい加減に何か手を打たないと、害虫並の執念深さでここを嗅ぎ付けられるやも知れない。バニーバニーと我が物のように名を呼んで。街中はおろか市外まで、飽くことなく捜し回っているらしいが――。

「君は優しい男だ。バーナビーを傷付けたことを今も気にしているのだろう?だが、もういいんだよ。姿を消したのもあの子の意思で……」
『気にするとか気にしないとか、そういうんじゃないんです。俺にはアイツがいないと駄目で、アイツもきっと、俺を必要としていてくれたんです。だから……』
「そうか……分かったよ。少しでも手掛かりになりそうな情報があれば、すぐにでも君に連絡を入れる。……約束だ」
『……宜しくお願いします』

今、目の前に奴の姿があったならば、間違いなく拳銃でその頭を撃ち抜いていただろう。私の芸術品に横から手を出す泥棒め。貴様は一生、何の手掛かりも与えられないまま、バーナビーの影を追い掛けているがいい。
私は深く息を吐いて、再びキッチンに立った。バーナビーが大好きな、フルーツたっぷりのホットケーキを作るのだ。生クリームを泡立てて、フライパンを中火で熱して、両面をこんがりと焼いて、キャラメルソースを上から垂らして。

「バーナビー、待たせたね。ほら、ホットケーキが焼けたよ」
「…………ん」
「……眠っていたのかい」

よほど待ちくたびれたのだろう。ソファの上で丸まっていたバーナビーが、ゆっくりとその半身を起こす。悲しい夢でも観ていたのか、その瞳は涙で濡れていて、私は殆ど反射的に、彼の身体を抱きしめていた。誓って言うが、これは愛情などという名前の感情ではない。ある筈がない。私は冷徹で打算的な男だ。あの下品で不潔な髭面とは根本から異なっている。

「マーベリック、さん?」
「可哀相に。また、怖い夢を見たんだろう?」
「怖くは……なかったです。黒い髪の、変な髭の男の人にギュッと抱きしめられる夢。すごく変な感じでした。訳が分からないのに温かくて、幸せで、嬉しくて……」
「…………そうかい」

これ以上はいけない。本格的に彼が壊れてしまう。そう分かっていながら、それでも私は能力を発動した。バーナビーが夢を見る度に、繰り返してきた消去作業。私の行為を咎めるように、鏑木・T・虎徹が彼の夢に登場する頻度は、日に日に高くなっていく。消す。夢を見る。消す。夢を見る。消す。バーナビーはもう夢を見ない。夢を見たという記憶ごと、夢は葬り去られてしまう。まるでメビウスの輪のようだ。私がこの世を去るのが先か、バーナビーが壊れてしまうのが先か、はたまたあのしつこい男が、彼をここから連れて逃げるのが――先か。



『俺にはアイツがいないと駄目で、アイツもきっと、俺を必要としていてくれたんです』



目を逸らすたび視界の端を霞めゆく、あの陰欝な黒い髪。バーナビーは私の夢を見ない。リセットされた頭の中でも、あの男しか求めない。白い玉で書き換えられた脳が、再度、ゆっくり覚醒する。おはよう、バーナビー。私の可愛い可愛い芸術品。

「バーナビー、ホットケーキが焼けたよ」
「マーベリック、さん」
「待たせてしまったね。……夢を観ていたのかい」
「いえ……何も。夢はもう、ずっと長いあいだ見ていないような気がします……」
「そうかい。それは……」

良かったと、私は穏やかに笑った。


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