レストランや食堂に必ず置いてあるもの。それは、店がその時に提供できる料理を書き並べた"品書き"だ。世界各国津々浦々、料理の種類は無限とあれど、一品屋台でもない限り品書きの無い店など存在し得ない。

その日、鏑木・T・虎徹は腹を空かせていた。数年前に仕事で大きな事故をしてから、身体には人一倍気を遣うように心掛けていたが、どうしてか今日は腹の虫が我が儘を言ってきかない。身体が資本の仕事に従事していた虎徹は、同世代の男達よりも遥かに引き締まった体躯をしている。事故の後遺症も日増しに快方へと向かってきているところだ、一日くらい不摂生をしたところで何ら障りはないだろう。ゴールドステージの病院を出て通い慣れた道に足を踏み出した虎徹は、沈み行く太陽の光に目を細めながら街の中を見渡した。ハンバーガーにホットドック、ステーキや牛丼も悪くない。空腹は最高のソースだ。今ならば、何を食べても美味いと感じられる気がする。

「…………ん?」

何気なく視線を向けた路地の裏に、こじんまりとした中華料理屋があることに気付いた虎徹は、直感に導かれるようにしてその店に足を向けていた。この界隈は支柱が老朽化していて、ゴールドステージの中でも飛び抜けて地価が安いために、ゴールドでありながらブロンズのような雰囲気を放っている。虎徹は長年の勘から、客の入りが悪そうなのに潰れない個人経営の店は5分5分で「超美味い」と「糞不味い」に分かれるという持論を編み出していた。要するに賭けという奴だ。極端に日当たりが悪いせいで青黴の目立つ扉をガラリと横に押し開くと、虎徹は人気のないカウンターに向かって「すんません」と乱暴に声を掛けた。

「店、やってますか?」

カウンター席しかない店内は想像していたよりもずっと綺麗で、床には埃の一つも見当たらなかった。中華料理屋や日本料理屋によくある木製の品書きはなく、壁には少し前に活躍していたヒーローの色紙がずらりと並べられているが――まさか"親友"のロックバイソンも、この店に足を運んでいたとは。

「すみません、下拵えをしていて………………開いていますよ」
「何か気ぃ使わせちゃったみたいですね」
「いえ……仕事ですから」

奥から顔を出した店主は、虎徹の顔を見て一瞬だけ――本当に一瞬だけ驚いたような顔を見せたが、すぐに元の笑顔に戻って、カウンター席に座るよう促した。中華料理と中国人をイコールで結んで考えていたが、意外にも店主は白人だった。金色の髪を襟足で束ね、高い鼻に眼鏡を乗せているその男は、30手前だろうか――まるで造り物のように整ったな容姿をしている。

「この店、ヒーローもよく来るんスか」
「……いえ。昔、少しの間だけヒーローに関わる仕事をしていたので、その時に頂いたものを飾っているんです」
「へぇ……レジェンドのは……流石にねえか。ん、"バーナビー"……?知らねえなあ。俺、結構ヒーローには詳しいんだけどな」
「ワイルドタイガーのサインも無いんですよ。怪我で休んでいて、貰い損ねたんです。残念ですよ…………一番、好きだったのに」

虎徹は俄かに鼻息を荒くしながら椅子に踏ん反り返った。まさか虎徹がワイルドタイガーだとは知らずに話しているのだろう。アイパッチをしていたら、何百枚でもサインを書いて贈ったのだが。
換気扇のカタカタ鳴る音に耳を傾けながら、横目で店主を盗み見た虎徹は、何とも形容し難い想いが胸の奥にたぎるのを感じて、慌てて手拭きに目を落とした。ファンだと言われて舞い上がっているのか。どうにも尻の座りが悪い。

「あ、そういやメニューは?」
「炒飯とレジェンドコーラだけです」
「…………へっ?」
「炒飯とレジェンドコーラがうちのメニューです」
「や、餃子とかラーメンとか焼売とか……」
「すみません、本当にその2点だけなんです」

瞬きを繰り返す蛍光灯に合わせて虎徹の目もぱちぱちと点滅をする。流行らない訳だ。炒飯とコーラが大好物の虎徹でも、わざわざそれしか置いていない店を選んで入りはしない。頭を掻いて閉口した虎徹に、店主は何を思ったのだろう。彼は、長い睫毛に囲まれた緑の目を伏せると、ゆっくりゆっくり口を開いた。

「炒飯は僕の想い出の料理なんです。少し長くなりますが、僕の話を聞いてくれますか?」

社会に出たばかりの頃、店主には馬の合わない先輩がいた。別の会社から移籍してきたその男は、仕事でミスを連発するくせにやたらと先輩風を吹かせてきて、押し付けがましい人間が大の苦手だった店主は、10歳以上歳が離れているにも関わらずその先輩を毛嫌いして反発ばかりしていた。店主は幼い頃に両親を亡くし、両親と交遊のあった後見人の手元で育てられていたが、胸の中には常に孤独を抱えていた。先輩はそんな店主の孤独に気付き、どれだけ彼が冷たく突き放そうと、いつも優しく接してくれた。やがて、深く信頼し合うようになった二人はコンビとして活躍するようになるが、店主の些細な判断ミスから二人は大怪我を負ってしまう。頭に傷を負った先輩は記憶障害を患い、数年分の記憶を丸ごと失ってしまった。店主の脚には一生消えない傷が遺ったが、店主が気に病んだのは、自分ではなく相手のことだった。

「……彼に傷を負わせたのは僕だから。僕の存在が彼の中から消えたなら、僕自身も一緒に消えようと思ったんです。でも、やっぱりどうしても忘れられなくて」
「…………」
「僕が落ち込んでいる時、その人はいつも炒飯を作ってくれたんです。腹一杯食って風呂入って寝たら、嫌なことなんて吹っ飛ぶぞって。だから僕も彼を元気にしたくて、彼が目覚めるまでに何度も何度も練習を重ねたんです。結局、彼に食べてもらうことは出来なかったんですけどね。お客さんからは美味しいって評判いいんですよ?」
「…………」
「あ……すみません、重たい話をしてしまって。趣味でやっているような店ですから、炒飯が苦手でしたら無理に注文しなくてもいいんですよ。ここだけの話、メニューを聞いて出ていくお客さんも多いんです」

額に浮かぶ汗を拭って、虎徹は左右に首を振った。頭の中の泉に石を放り込まれたような気分だ。或いは"子供の頃に読んだ絵本のあらすじを、大人になった時に聞いた"ような――妙な既視感が――。

「食うよ。コーラも頼む」
「はい、喜んで!」
(もう、虎徹さんまた炒飯ですか!栄養が偏りますよ!マヨネーズまでかけて……あっ、僕のにマヨネーズかけないで下さいね!)

頭の中で誰かが頬を膨らませている。10年前に他界した妻は"虎徹さん"とは呼ばなかった。一人称も"僕"ではなかった。親しげに話している相手は……誰、なのだろう。油の焼ける匂いが店内に充満し、白い作業服に身を包んだ背中が手慣れた様子で鍋を振る姿が眼下で揺れる。頭が痛い。割れそうに痛い。

「はい、お待たせしました。炒飯です」

海老の入った炒飯とコーラを前にして、ぐっと呼吸を飲んだ虎徹は、記憶の断片を掬い上げるような心持ちで、皿にスプーンを突っ込んだ。店主は虎徹に背中を向けて皿洗いの支度を始めている。大きな口でスプーンにかぶりついた瞬間、虎徹は殆ど無意識のうちに、震える声で呟いていた。



「美味いじゃねーか、バニー。ずっと俺の為に練習しててくれたんだもんな。ありがとうな」

壁に飾られた色紙の、バーナビーのサインの左側だけがやけに広く感じられるのは、そこにあるべき筈のものが抜け落ちていたからなのだろう。虎徹はスプーンを置いて目元を両手で覆った。空腹はまだそこにあるのだが、胸がいっぱいで今は何も入りそうにない。マヨネーズは止めて下さいよ、と、店主──バーナビーが、振り返り、精一杯の虚勢を張った声で言った。虎徹はカウンターを飛び越えて、その身体を強く抱きしめた。消えた記憶を求めるように。

「──お帰りなさい、僕の虎徹さん」


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