重たい雨の降りしきる夜。ブロンズステージの片隅で、小さなバーに明かりが灯った。歳のいったマスターが一人で切り盛りするその店は、どこにでもあるようなカウンターの前に安っぽい丸椅子を6つ並べただけの、古臭くてやぼったい造りをしている。大通りから随分と離れた位置に暖簾を構えていることもあって、客の入りは芳しくない。ひどい時には丸一日、客の顔を見ないまま店仕舞いをすることもある。年代物のジュークボックスが歌うシャンソンに混じって、石段を叩く雨粒の音が聞こえる。時計の針が一周しても、店の中の風景にこれといった変化はない。座る人のないカウンターに、磨き上げられたグラスだけが整然と並べ置かれていく。

今夜は誰も来ないだろう、と踏んでいたマスターの耳に甲高いベルの音が届いたのは、それから更に一時間が過ぎた頃だった。鳩を模したウェルカムベルがぶら下げられた扉が開き、背の高い男が顔を覗かせる。……年齢は、二十代半ばだろうか。一人でブロンズステージの酒場へやってきたにしては、どうにも場慣れしていないように見受けられるのだが。

「傘は入口の横に掛けておいて下さいな。寂れた店だ。盗る人もいないでしょう」

ウェーブがかった髪の隙間から、深い緑の瞳が覗く。……既に酔っているのか、それとも今まで泣いていたのか。眼鏡の縁に隠された目元が、真っ赤に腫れ上がっている。

「ロゼワインはありますか」
「うちでは扱っていませんな」
「そう、ですか」
「貴殿は甘めのお酒がお好みですかな?」
「……どちらかと言うと」
「ほう、それなら"パールハーバー"をお勧めしましょう。フルーティーで、口当たりもいい」

最奥の席に腰を下ろした青年は、棚に並んだベースのボトルをひとしきり眺め回した後で、小さく「お勧めのカクテルをお願いします」と呟いた。幼さを残した、甘い声。背後に立つジュークボックスが、それに負けじと悲しい恋物語を歌う。
青年が店にやってきてから三十分も経たないうちに、二人目の客がやってきた。この雨の中、傘も差さずにいたのだろう。ハンチング帽を被った頭から靴の先まで、色が変わるほど水浸しになっているのが憐れだ。四十前後のその男は、店の中をぐるりと見渡して先客の青年の存在を見留めてから、入口に一番近い端の席に腰を下ろした。

「スコッチ。あと、ナッツも」

注文を口にしながらも、視線は奥の席を捕らえたままだ。目線を伏せてグラスに唇を寄せている青年は、男の熱い眼差しに気付いていないのか、ちらりともそちらに顔を向けない。雨が騒ぐ。ジュークボックスが歌う。ハンチングを被った男がため息を吐く。見兼ねたマスターが、そっと彼に耳打ちをした。"奥の方に何か作りますかな"。

「ブルームーンをお願いします」
「畏まりました」

シェイカーを強めに振って、氷の破片を散りばめる。紫がかった青色の、みずみずしいカクテル。あちらの方から、と告げてグラスを近付けた時、漸く、青年が男に視線を向けた。カラン。その時、まさに"水を差す"ようなタイミングで、また入口の扉が開く。珍しい。今日は滅多にない大盛況だ。

「んだあ、相っ変わらずシケてんなあ、この店はよ!」

――突如、空気が悪くなる。
店に入ってきた男は、この界隈でとてつもなく評判の悪い、鼻摘まみ者の無法野郎だった。男も女も好みとあらば、見境なく絡む・追い詰める。その上、格闘技をかじっていただ何だで、人並み以上に腕が立つのだから話にならない。マスターは白い髭を撫でて、我が身の無事を神に祈った。……前に奴が来た時には、ボトルを7つも割られたのだ。
野生の熊のように低く唸りながら首を回した男が目をつけたのは、やはり、最奥の青年だった。身長こそ青年の方が高いが、筋肉と贅肉に覆われた男の方が、遥かに大きく見える。無法者は青年の真横に腰を下ろすと、徐にその肩を抱いた。腐ったソーセージのような指に、金色の髪が束で取られる。

「なあ坊ちゃん、俺と遊ばねえか?」
「……結構です」
「天国、見せてやるからさあ」
「汚い手で触らないで下さい」
「オイ、お高くとまってんじゃねーぞ!路地裏に引きずり出してブチ込むぞ!」
「……痛っ!」

髪を引っ張られた青年が悲鳴を上げるのと、ハンチングの男が立ち上がるのとに、殆ど時間差は無かった。数珠を巻いた腕が無法者の丸い肩を掴む。綿入りのぬいぐるみのように、大きな身体が床へ飛ぶ。濡れた髪を頬に張り付けた男は、額に青筋を浮かべたまま、怒りを押し殺した声で唸った。

「触んじゃねえ、つってんだろ」
「な……な……」
「それ以上そいつに近付くな。――本気で怒るぞ」

押し殺しているからこそ、余計に伝わる激しい怒り。文明的な生活に慣れても、身体の奥底に息付く野生の本能までは消せないようだ。例えば今この瞬間――そこに転がっている輩が、青年の身体を蹂躙ようと手を伸ばしたりしたら――彼は間違いなく、命を賭けてでもそれを防ごうと闘うだろう。

「ひっ…………」

じりじりと後ずさり、壁にぶつかって我に返り。いっそ可哀相に思えるほど小さくなった背中が、雨の中へと消えていく。雨の音、シャンソン。無理矢理に乱された髪を指先で整え直した青年が、捧げられたブルームーンを煽りながら、拗ねた口調で吐き捨てる。

「何が"それ以上そいつに近付くな"ですか。よく言いますよ。本当は僕のことなんてどうでもいいくせに」
「……俺が悪かった」
「出て行けっていったくせに」
「ごめん」
「お前の顔みなくて済むなら清々するって」
「……帰ろう」

すみません、ちょっとだけ後ろ向いてて下さい。遠慮がちにそう頼まれて、マスターは笑顔でくるりと二人に背中を向けた。何をするのか聞くのは"野暮"だ。暫らく無言の時間が続き、カウンターに代金を置く音とドアベルの鳴る音が響いて――マスターが一人、小さなバーに残される。今夜はもう、店じまいだ。



『要するにただの痴話喧嘩なのよ。傘に降るのは幸せの雨だわ』



疲れを知らないジュークボックスが愛の歌を吐き出す。閉店の札を下げる為に店の外へ出たマスターが見たものは、一つの傘と、その下を歩く四本の足。傘に降るのは幸せの雨、か。そうか――なるほど。


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