死ネタを・IFネタ・暗い話注意





十数年ぶりに訪れた街は、何もかもが昔と変わってしまっていた。古びた旅行鞄を片手に改札口を抜けた虎徹は、住み慣れた筈の、けれど今は見知らぬ街に畏怖にも似た想いを抱きながら、真っ直ぐにシルバーステージを目指す。
ロートルヒーロー「ワイルドタイガー」の突然の引退宣言は、かつてのシュテルンビルト市民に少なからずの衝撃を与えた。中には相棒のバーナビーとの不仲説を面白おかしく書き散らすゴシップ誌もあったが、引退した虎徹に言い訳をする場が与えられる筈もなく、バーナビーもまたワイルドタイガーとのコンビ解消以降、元相棒について一言も言及しようとはしなかったので、噂は噂のまま、いつしかどこかへ消えてしまった。
流れていった年月と共に増えた皺を撫でながら、虎徹は渇いた笑みをこぼした。不仲と言えばそうなのかもしれない。引退の理由をごまかしたことで激しい言い争いになり、投げつけられた心ない言葉にカッとなって手を上げてしまってから、バーナビーとは一度も"個人的な"連絡を取っていない。コンビ解消の為にしなければならないことをすべて消化し終わるまで、彼は表面上を完璧に取り繕った。さようなら、お元気で、と笑ったバーナビーの瞳に以前の無邪気な表情はなく、「そのうちまた飲みましょう」と口にしてはくれたものの、数ヶ月あけて送ったメールは宛先不明で舞い戻った。虎徹が引退してから5年後、キングオブヒーローの座を守り続けたバーナビーは、惜しまれつつもワイルドタイガーの後に続いた。引退後のバーナビーは、ただの一度も公の場に姿を現してはいない。……彼が今、どこで何をしているのか。一般人に戻った虎徹に、それを知る術はなかった。

途中で立ち寄った店で、安くない値段のついたロールケーキとプリンを見繕う。喫茶店に入るたび、照れくさそうな顔で甘いものを注文していたバーナビーのことを思い出して、不意に目頭が熱くなる。あの時こうしていたら、ああしていたらと湿っぽく考えるのは好きじゃないと、自分自身に言い訳を重ねながら目を逸らしてきたけれど、愛娘の名字が鏑木ではなくなり親から男に戻ったときに、望んだことはただ一つだった。訝しげな顔でこちらを見た店員に軽い会釈を返しながら、虎徹は足早に店を出る。日はまだ高いが。それでも、自ずと足が早まっていく。



「初めまして、私がサマンサ・テイラーです。このたびはわざわざ遠くから……さあさあ、どうぞ上がって下さいな」



初対面にも関わらず、彼女は驚くほど親しげに虎徹を家へと上げてくれた。バーナビーが慕っていた家政婦のサマンサ。彼女の家を知ることになったのは、本当に偶然だった。

「この子たちが里親を募集している子猫です。あら、一人足りないわ……どうしましょう、どこに遊びに行ってしまったのかしら」

段ボール箱の中から顔を覗かせた猫達が、無垢な瞳で虎徹を見ている。大切にしてもらっているのだろう。どの猫も少し前まで野良でいたとは思えないほど艶やかな毛並みだ。差し出された紅茶のカップに口を付けながら、虎徹は空いた左手を軽く握った。荷物を詰めた鞄が、膝の上で身を堅くしている。

「あの、サマンサさんは……その、昔バニ……いや、バーナビーの……」
「えっ?」
「…………俺は昔、アポロンメディアでバーナビーの相棒をしていたワイルドタイガーです。覚えていないかもしれませんが、十年以上前」
「あら、まあ……あなたが坊ちゃんの……ええ、もちろん覚えていますよ。坊ちゃんからよく伺っておりました」

バニーに会いたい、会いたいと喧しく喚きだした心臓を押さえながら、虎徹は身を乗り出した。サマンサが、戸惑うように視線を泳がせている。バーナビーから取り次がないようにと言われているのだろうか。虎徹は姿勢を正すと、改めて深々と頭を垂れた。

「ヒーローを引退してから、ずっとバーナビーに謝りたいと思っていたんです。俺が不甲斐なかったせいで、あいつを傷付けてしまって……それでずっと、後悔していたんです。お願いします、バニーに会わせて下さい。少しだけ話が出来れば……いや、一瞬でも会えれば。俺は、ただそれだけで……」

虎徹さん、と呼ぶ穏やかな声が、耳の奥で蘇る。笑顔も泣き顔も怒った顔も無防備な顔も、虎徹には全てが宝物だった。妻を亡くしてから、暗闇の中をあてもなく走りつづけていた虎徹に、新たな道を示してくれたかけがえのない存在。虎徹はバーナビーに、今でもまだ恋焦がれている。

顔を上げて下さい。そう言われて姿勢を戻した虎徹は、手渡された紙切れを覗き込んで小さく息を呑んだ。紙切れに書かれていたのは、シュテルンビルトからほど近い位置にある丘の名前だった。"部屋番号"を示す数字の前には、小刻みに震えた筆跡で"霊園"と書かれていた。

「坊ちゃんは3年前に病気でご両親の元へ行ってしまいました。タイガーさんのことは、病床でもよく話していましたよ。ちゃんと娘さんと仲良くしているのか心配だ、虎徹さんは本当に不器用な人だから……と」
「……嘘だ」
「あなたのこと、坊ちゃんは一度も悪くは言いませんでした。本当に素直で真っ直ぐな子で……どうしてあの子があんなにも早く……」
「嘘、だ」

飲んだばかりの紅茶が、胃液と混ざり喉元までせり上がってくる。虎徹にとっては、あっという間の十年だった。バニーちゃんはずっとバニーちゃんで、離れていても決して色褪せることはなかったけれど、現実は残酷なほど規則正しく、時計の針を進めていたのだ。
皺だらけの温かい手が「これを」と差し出したのは、小さな紙袋に入った、幾つかの形見の品だった。虎徹は力の入らない手で、それらを一つずつ確かめる。充電の切れたPDA、小さなロボットの玩具、六角形の眼鏡、金製のドッグタグ、変わったデザインの指輪。誕生日に頂いたぬいぐるみと焼け焦げたタスキの破片は、坊ちゃんの棺に入れました、と伝えられて、虎徹の唇から堪えきれない嗚咽が零れる。道を間違えてしまったと気付いた時には、既に何もかも手遅れだった。どこからか姿を現した一匹の猫が、後悔の涙を流す虎徹の足元で、不思議そうににゃあと一声、鳴いた。




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「バニーちゃん、前に今間接照明に凝ってるって言ってただろ?これが26歳の誕生日プレゼントな。ちょっと古臭いけど、アンティークランプっつーんだっけ?まあ、物はいいヤツだから。で、こっちは27歳の誕生日プレゼント。可愛いアロマキャンドルだろ?これ、実は楓が選んだんだよ。えーと……ああ、これは28歳のやつな。俺とバニーが初めて一緒に観に行ったオペラの復刻版ディスクだ!どうだ、すっげー豪華だろ?」

抱えてきたボストンバックの中から取り出したプレゼントを墓前に並べ置きながら、虎徹は一つ一つに込めた想いを、語り聞かせるようにつらつらと話し続けた。相槌は返らない。渡す相手はどこにもいない。それでも、言葉はとめどなく溢れ続ける。
最後に取り出した箱の中身は、飾りのないシンプルな指輪だった。30歳の誕生日プレゼント。電車の切符を握りしめたまま何時間も駅をうろついて、駅員に咎められたことを言い訳に、家族の待つ家へと逃げ帰った──あの日。彼は、まだこの街に、暮らしていた。

「……楓が独り立ちしたらさ、俺、バニーと二人でのんびり人助けしながら暮らしてえな」

北風が頬を掠め、ぽつぽつと落ち始めた夕暮れの雨が、虎徹の頬と墓石を濡らす。三つの名前が並んだ墓に手を合わせた虎徹の右の小指には、バーナビーの指を飾っていた、黒の指輪がはめられていた。

「俺、自分で思ってたよりずーっとバニーのこと愛してたみたいだ。お前がこの世にいないって聞いてからさ、頭ん中真っ暗でなんにも考えらんねえの」

次第に強まる雨に背中を打たれても、虎徹は顔を上げなかった。冷たいのは心で、痛いのも心だ。降り注ぐ雨から逃げ出したところで、行く場所はもうどこにもない。

『虎徹さんは、本当に不器用な人だから』
「お前の言う通りだよ。俺にはバニーが必要なんだ」
『あなたには、僕がついてないと』

分岐し得たかもしれない、バーナビーの隣で笑う幸福な"もしも"の自分に問う。俺は一体、どこで行く道を間違えたんだ────正しい道はどこに隠されていたんだ────と。


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