虎徹の暮らす部屋には一箇所だけ"開かない窓"がある。玄関を入ってすぐの所にあるそれはクレセント錠の付いたオーソドックスな引き違い窓なのだが、どういう訳か押しても引いても全くその身を動かそうとはしない。まだ家族で暮らしている時分に、妻がそこを開けて換気をしている姿を目にしたことがあるので、ここ数年の間にすっかり建て付けが悪くなってしまったのだろう。業者を呼んで直すことも考えたが、ほとんど寝に帰るだけの場所に労力を割くのが面倒だという気持ちが勝って、結局は何もしなかった。洗濯物を床に脱ぎ捨てていても叱られない、酒瓶を片さないままにしておいても咎められない、自由気ままな生活──。




【ワイルドタイガーの成績が緩やかに降下しはじめたのは、新しい風の入らない部屋に帰ることを寂しいと感じなくなった時期と、寸分違わず重なっている】




瓶と缶。食べ終わった皿、脱ぎ散らかした服、絡まったコード。胸に抱いていた買物袋をどすんと下ろしたバーナビーは、部屋の中央に立ってリビングを眺め回すと、子供を叱る親のような口調で「虎徹さん!」と名前を呼んだ。3年に1度行われるヒーロー資格の更新試験まで、10時間を切った夏の夜。模擬の筆記試験で落第点を取った相棒に一夜漬けを施す為、虎徹の部屋を訪れたバーナビーだったが――。

「これは何ですか!どうしてお酒の瓶や服が床に落ちているんです?男の一人暮らしにだって、限度というものがあるでしょう!」

大雑把な性格の彼の部屋は、職場の汚い個人ロッカーの面積をそのまま大きくしたかのような惨状だった。

「いや、滅多に人なんて呼ばねえから、つい適当に……」
「適当にも程がありますよ!僕、こんなところで勉強するのは御免です。少し片してからにしましょう」
「おい、試験まで時間がないんだぞ?」
「勉強しながら掃除!ほら、虎徹さんは服を畳んで!」

尻を突かれるようにして立ち上がった虎徹は、渋々落ちた服を拾って、それを一箇所に集めた。バーナビーは空いた瓶をテーブルの上に並べている。ゴミ袋は?と聞かれてキッチンを指すと、彼は虎徹に断ってからキッチンに足を踏み入れた。

「司法局、ヒーロー管理室、警察連携室、トレーニングセンター、ジャスティスタワー内にないものは?」
「へっ?」
「手を止めない!」

高すぎない声が、聞き取りやすい音量で例題を読み上げる。テキストはテーブルの上に置かれたままになっているので、暗記したものの中から出題しているのだろう。優秀すぎる記憶力に感嘆しながら、虎徹は思考を巡らせた。勿論、叱られないように手は動かしたまま、だ。

「……警察連携室?」
「正解。では、トランスポーターに設置が義務付けられているものは」
「あー、っと……LED、だっけ?」
「惜しい!AEDです。語呂合わせで覚えるのがお勧めですよ。次。人命救助の際に――」

不思議な気分だ。バーナビーがこの部屋を訪ねて来たのは今日が初めてだというのに、まるでパズルのピースのように、自然と空気に馴染んでいる。キッチンに立つ相手と言葉を交わす楽しさが、じわりと胸に蘇る。

瓶と缶を分別し袋に入れ、畳んだ服をクローゼットにしまい直すと、見違えたように部屋の中が広くなった。掃除をしている間も絶えることなく勉強を続けていたおかげで、何となく頭が良くなったような気がする。バーナビーとコンビを組むまでは、勘と記憶だけを頼りに体当たりで挑んできたのだが、そんな真似を続けていたならばそう遠くないうちに落第して資格を剥奪されていただろう。綺麗になったソファにバーナビーを誘いながら、虎徹はふっと笑みを零した。誰かの為にと肩肘を張って頑張っていた時よりも、相棒と軽口を叩き合いながら人助けに励む今の方が、ずっとずっと遥かに楽しい。

「ヒーローの所属企業に賠償金が課せられるのはどんな時?」
「"人命救助・退路を塞ぐなどやむを得ない事情がある場合を除いて、公共物・市民の私物を破壊した時"」
「では、賠償金の支払いを命じる機関は」
「司法局」
「トランスポーターに設置が義務付けられているのは」
「AED!」
「すごい、全問正解です!」
「へへ……バニーの教え方が上手いからだって」
「もう……謙遜しないで下さい。虎徹さんはやれば出来る人なんですから」

お世辞でなく、そう思っているのだろう。テキストを片手に微笑むバーナビーの横顔に愛しさを感じながら、虎徹は髭の形をなぞった。少しずつ、ランキングも上昇している。人気投票で最下位を取ることもなくなった。全てはバーナビーあってのことだ。こんなにも相性のいい相手と巡り会えたことに、運命以外の言葉を宛がうことは難しい。

「なあ、2人とも無事に受かったらさ、寿司でもとってうちで祝賀会やらねえか」
「僕は当然受かりますから、虎徹さんの頑張り次第ですね」
「だっ!自分で言うなよ」
「冗談ですよ。……祝賀会、楽しみにしています」
「ん。俺も」

途絶えた会話を補うように、唇と唇が重なる。ほんのりと赤く染まった頬に頬を擦り寄せながら、虎徹は両手でゆっくりと、バーナビーの身体をソファへと押し倒した。



【ワイルドタイガーの成績が緩やかに上昇しはじめたのは、アポロンメディアに移籍してバーナビーと共に活動し始めた時期と、寸分違わず重なっている】



折り重なるようにして眠りに付いた2人は、携帯電話のアラームで飛び起きて顔色を青くした。一夜漬けをする筈が、互いの身体に浸りきって朝を迎えてしまうとは――青臭いにも程がある。

「行くぞ、バニー!」
「はい!……あっ、待って下さい、虎徹さん」

右手にゴミ袋、左手にテキストを持ち、玄関扉を押し開けた虎徹の耳にふと呼び留める声が届いた。振り返ると、バーナビーがあの"開かない窓"に手を掛けて何かを指差している。サッシの隙間に挟まった"それ"は、6年前に虎徹が買った、妻に渡すつもりの櫛だった。酔って帰ってきて置きっぱなしにしてそのまま忘れて。窓を開けようとした際に落ちて死角となる位置に引っ掛かっていたのだろう。――窓から目を逸らしていた虎徹には、絶対に見つけられなかったものだ。クレセント錠に指を掛け、そろそろと窓を押し開けると、夏の朝風が部屋に舞い込んで、2人の髪を悪戯に揺らした。

「いい風ですね」
「ああ……ああ、そうだな」

乱れた金色の髪に櫛を通して、軽く唇を重ねて、手を繋いで扉を潜る。いい風だ。涙が出るほど清々しい風だ。虎徹は唇を噛み締めると、2人分の気持ちが詰まった櫛を左の胸ポケットに入れて、繋いだ手にぎゅっと力を込めた。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -