大切なのは勢いだ。下手に思考を巡らせすぎると、先走りした杞憂に行動力まで吸い取られてしまいかねない。

スマートフォンを片手で握り締めたまま、虎徹はごくりと喉を鳴らした。開きっぱなしの電話帳アプリは、先程からずっと同じ人間の情報を開示したままだ。メールアドレスも電話番号も登録されているし、万が一そちらが不通であってもPDAを使えば確実に連絡が取れる。要は、ロックバイソンやファイヤーエンブレムを誘う時と同じように、気安く「飯でも食いに行かないか」と電話を掛ければ済む話なのだ。同じ企業に所属する相棒相手に気を遣う必要はない。意中の相手をデートに誘うのとは、状況も何もかも違うのだから。

この世には吊橋効果というものがある。危険を共有すると、その時に感じた緊張と興奮が、脳内で相手への"恋愛感情"にすり替えられてしまうのだという。昨年の暮、虎徹は一度、生死の境を徘徊った。だが、バーナビーの両親を殺害した犯人を追い詰める為に奔走し、命を懸けてサポートに徹したからこそ、彼の仇討ちと彼からの信頼回復の両方を叶えることが出来たのだ。虎徹を「おじさん」と呼び、事あるごとに使えないお荷物扱いをしてしたバーナビーの口から飛び出した「虎徹さん」という呼称が、どれほど虎徹を舞い上がらせたか。彼は少しも知らないだろう。正直なところ虎徹自身も、自分の浮かれように第三者の目線で驚いているのだから。

年下の相棒に懐いてもらえることが嬉しいのは勿論だが、虎徹の脳裏に浮かぶ感情はどちらかと言うと吊橋効果のそれに近い。隣にいるとドキドキするし、遠くにいると目線が追う。他の男――特に親しげに身体を触るCEOや妙に馴れ馴れしいカメラマン――が彼の側にいる時は、年甲斐もなく苛々してしまうのだから手に負えない。"男は死ぬまで思春期を生きる雄である"という名言を遺した俳優がいたが、四十に向かう道の途中で、虎徹はその言葉が的を射ているということを悟った。電話機を触る手に汗が滲み、再び唾が喉を下る。食事に誘うだけだ、ただそれだけだ。



『えーっ、それって絶対、ディナーだけじゃすまないですよー!男はみんな、気のある相手にそう言うんです!下心があるに決まってますよー絶対ー!』



深爪気味の親指で電話発信機能を起こそうとしたまさにその瞬間、つけっぱなしにしていたテレビの中から黄色い声が飛び出して、勢いよく虎徹の背中を撃った。弾かれるようにして振り返り、視線を向けた液晶の奥で、いかにも男受けのよさそうな若手女優が唇を尖らせながら司会者のコメディアンに食いついている。画面の右上に表示されたトークテーマは"大人の恋愛"。……全く、タイミングが良いのか悪いのか、だ。服の裾で手汗を拭った虎徹は、汽笛のように長い溜め息を虚空に向かって吐き出すと、スマートフォンの画面に表示された名前を"バーナビー"から"アントニオ"へと切り替えて、迷いもせずコールボタンを押した。



「久しぶりだな、虎徹。お前最近やたらと忙しそうじゃねえか。大人気の相棒様とは上手くいってんのか?」
「ったく、開口一番それかよ。普通だよ普通!」
「なーにが普通、だ!できのいい後輩に"虎徹さん、虎徹さん"って懐かれてまんざらでもないんだろ」
「……うるせー。それ以上言ったらお前の舌、炭火焼きにして食っちまうぞ!」



牛のような身体を揺らして笑うアントニオの隣で、虎徹はふんと鼻を鳴らした。双方が"二十年来の親友"と認め合っている仲だからこそ、遠慮なく冗談を投げ交わすことが出来るのだ。ヒーローズバーの奥まった席に肩を並べて座った二人は、ステーキセットとハンバーグセットをそれぞれ手早くオーダーすると、メニューに名を連ねる酒の中から揃ってビールを選び出した。暖房の効いたフロアに、ヒーローTVの再放送が大音量で流れ始める。斜め後ろのテーブルに座る二人組の青年が、ブルーローズの紹介VTRに沿って派手な合いの手を入れた瞬間、静かだった店の雰囲気が、弾けたように明るくなった。

「なあ、何か最近ワイルドタイガーのおっさん伸びてきてないか?」
「ああ……そういやそうだな。移籍する前は毎年最下位争いしてたのにな」
「だよなあ。やっぱ男としてバーナビーに負けっぱなしなのは悔しいんじゃねーの。確か能力も同じなんだろ?」
「なるほどな。そういや、うちの職場にもいたよ。後輩が出来て急に人が変わった奴」
「いるいる!ま、俺はバーナビーみたいな後輩が出来たら即退職願コースに走るけどな。非の打ち所が無い新人って可愛げねーし扱い辛いし、正直無理!」
「でもよお、同じ非の打ち所の無い生意気な新入社員でも、それがローズちゃんだったら……話は違うよな?」
「ぶはー、ばっか、当たり前だろ!ローズちゃんが後輩だったら毎日100時間だって残業するわ、俺!」

目眩しく移り変わる巨大モニターの映像と共に、軽口の応酬を楽しんでいるブルーローズファンへ穏やかな視線を向けながら、アントニオがビールのグラスを揺らした。ヒーローズバーに顔を出す客は、ヒーローのことをよく見ている。不調になれば馬のように叩き、調子が上がれば我が子のように褒めそやす。もちろん、彼らの言う"調子の良し悪し"がランキング順位だけを元に弾き出されているかというと当然そんなことはなく、バーナビーにトップの座を譲り渡し、ランキング順位とお茶の間人気とを纏めて落とす羽目になったスカイハイが「深夜の自主パトロール」を1日も欠かすことなく続けている事をよく知る古客達は、彼の順位がどれだけ下に落ちようと、決してそれを口汚く野次ったりはしないのだ。

「……今の話聞いたか。良かったじゃねえか虎徹、お前あいつらに褒められてたぞ」
「全然良くねーよ、万年最下位争いしてたおっさんって馬鹿にされてたじゃねーか」
「でも、今は伸びてきてんだろ」
「……そりゃ……ま、努力してますから」

緩む口から流し込まれたビールが、舌にまろやかな苦味を落とす。確かに虎徹は変わった。市民の安全を守ることが第一だという信念は何一つ変わっていないが、それ以外の部分――特に"ヒーローという職業を成立させる為"のスポンサーや所属企業、そしてファンに対する態度――については、驚くほど柔軟になったと思う。バーナビーが虎徹の影響を受けて「市民の命を守ることが何より大切」なのだと口にするようになったのと並行して。虎徹も、バーナビーに強く影響され始めている。理論尽くしの説教すら、楽しくて仕方がないと思える程に。

「それにしてもあいつら、意外と冷静にバーナビーのこと見てるじゃねえか。扱い辛くて可愛げがねえ、だとよ。正にお前の本音そのままだな!」
「ん?……ああ、いや、そりゃ前はそう言ったかもしれねえけどさ、今は別にんなこともないっつか……」
「?……何だ、はっきり言えよ男らしくねえなあ、モゥ」
「いや、一緒にいるとそれなりにっつーか、結構――」
「お待たせ致しました。ヒーローズバー特製ステーキセットとハンバーグセットになります」
「お、やっと来たか!俺がステーキ、コイツがハンバーグで!――ああ、で、結構何だって?」

素直で可愛いところもある、と続ける筈の言葉を丸ごと飲み込んで、虎徹は「止め」だと言う代わりにひらひらと掌を翻した。誘い文句の一つさえ掛けられないでいるうちは、惚気を控えた方がいい。相棒の可愛い部分を自分だけの秘密にしておくことで、"自分以外"が隣に立つ可能性を少しでも抑えておく……つもりは毛頭はないのだが。

「ローズちゃんが後輩だったらさ、目に入れても痛くないくらい猫可愛がりするよなあ、やっぱり」
「だな。あの冷たーい目で"ちょっと先輩、アンタそんな簡単な仕事もできないの?"なーんてお説教されたらさ、嬉しくてついデレデレしちゃう!」
「……俺も、。平たく言えばあいつらと同じだな」
「?何がだ虎徹、俺のステーキは一口もやらねえぞ?」
「だっ、いらねーよ!」

カウンターの影で手早くメールを打ち込んで、親指の腹でボタンを押す。明日の夜は、シルバーステージにある少しだけ値の張る洋食屋で、美味しいロールキャベツを食べよう。揺れる吊橋はとっくの昔に渡りきってしまったけれど、二度目の春に戸惑う心は変わらずに揺れ続けている。

(バニーちゃんが後輩だったら、代わりに火の矢に撃たれるのも怖くないくらい猫……いや、兎可愛がりするよなあ──やっぱり)

大きなモニターに映し出されたバーナビーが、一見すると格好のいい、けれどよく見ると恐ろしく可愛い笑顔で二本の指を立てた。デミグラスソースたっぷりのハンバーグに三本指のフォークの先端を向けながら、虎徹は獲物の追う雄と好物にはしゃぐ少年とをごたまぜにしたような表情で、犬歯の目立つ大きな口をがばりと勢いよく開いた。


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