強い刺激臭に鼻の奥を叩かれて、思わず身体が前のめりになる。酸素を求めて口を開き、煙に喉を焼かれて咳込み、咳と共に吐き出された酸素を取り戻そうと、口を開いては咳込んで。バーナビーは遂に膝から床へと崩れ落ちた。覚悟は少しも揺らいでいないが、遺伝子に染み付いた動物としての生存本能が、身体を煙の少ない角へと動かす。

「…………っ」

起き上がろうと身体を起こすも、膝が笑って上手く立てない。ソファを焼き尽くした炎はカーテンを伝って天井まで昇り、四方へ火の粉を散らしている。二階の床が落ち始めるのも時間の問題だろう。倒れた拍子に外れて落ちた眼鏡をぼんやり眺めながら、バーナビーは肩で呼吸をした。疲労と安心と恐怖を一つに纏めて捏ね合わせたような気分だ。目眩がするほど熱いのに、身体は震え続けている。最後くらいは。両親の腕の中でゆっくりと眠りたかったのだが。

人は死と向かい合わせになった時に、漸く建前を捨てることが出来るのだという。頬を預けた床に伝い落ちる涙は、ただひとつの心残りを想って流す後悔の涙だ。夢を叶え目的を実現させ、そうして空っぽになった心の底から浮かび上がった切ない想いは、今までに感じたことのない類のもので。バーナビーはまるで譫言のように、同じ名前を繰り返した。父の名前とも母の名前とも異なる、三文字の名前を。



「虎、徹…………さん……」



バニー。……遠くから名前を呼ばれたような気がして、バーナビーは穏やかに微笑んだ。幻聴だと分かっていても、彼の影に見送られて逝けるのならばそれが何よりの幸せだ。バニー、いるんだろう、返事をしてくれ。切羽詰まったその呼び掛けは、聞いている方が辛くなるほどの涙声だった。どうせならば「愛してる」と言ってくれればいいのにと、殆ど回らない頭で、バーナビーはそう考えた。身体がふわりと宙に浮き、頬に温かいものが触れる。死、とは。こんなにも不安定で呆気のないものなのだろうか。



木の爆ぜる音、天井の落ちる音、声を聞かせろと叫ぶ声。耳の奥で混ざり合った音が、音として認識される前に熔け落ちていき、そして――全ての音が途絶えた。



意識を手放した瞬間のことは、何一つ記憶していない。次に目を覚ました時、バーナビーは草の上に横たわっていた。正確には"半分、草の上"とでも言ったところか。上半身は誰かの膝で強く抱きしめられていて、身じろぎさえすることが出来ない。辺りは真の闇に包まれ、炎の気配はどこにもなかった。……何が起きたのだろうか。状況を確認するため澄ました耳に唸るような嗚咽が飛び込んできて、バーナビーは思わずはっと息を飲む。聞き間違える筈のない声。両親の為に生きてきたバーナビーが、死ぬ間際にその名前を呼んだ、かけがえのない人の声。

「バニー……畜生、何でだよお……お前まで俺のことを置いていくのかよ……なあ、バニィ……」

最初はそれこそ「夢だ」と思った。バーナビーの知る虎徹は声を上げて泣くような男ではなかったし、そもそもこんな森の奥に彼の姿がある筈がない。けれど抱きしめる腕の感触も、うっすらと開いた瞳に映った時計も届く声も、虎徹のものに間違いは無く。バーナビーは焼ける喉を押して、ゆっくりと虎徹の名を呼んだ。

「…………!」

弱りきった子猫の声にも似た小さな小さな囁きは、しっかりと彼に届いたようだ。確かめるように寄せられた顔、涙と煤で汚れた頬にかじかむ指を這わせると、赤く染まった瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

「ふ、ふざけんなよ……俺はなあ、お前が死んだと思ったんだぞ!本気で……本気でお前が……」

言葉はそこでぴたりと止まり、代わりにキスが落ちてくる。離れてはまた重なり、啄んで、貪って。お互いの命を確かめあうキスは二人から時間の概念を奪い、どちらからともなく重ね合った掌は、元からそうあるのが正しいのだと言わんばかりに、指の股までぴたりと揃う。虎徹は愛しているとも、好きだとも言わなかった。濡れた瞳が、どんな言葉よりも雄弁に愛を訴えていたから。バーナビーも敢えてせがんだりはせず、素直にキスを受け入れた。

「また……貴方に迷惑を掛けてしまいましたね」

長い長い口付けのあと、自嘲を含んでそう呟いたバーナビーの頬に、虎徹の鋭い平手が飛んだ。ぱん、という軽い音と共に視界が歪み、耳の下がじわりと熱くなる。再び重なった唇の熱さと打たれた頬の熱さ、落ちてきた涙の滴の熱さ。冷え切った身体に様々な種類の熱が落ちてきて、うまく嚥下することが出来ない。

「他人ごとみたいに言うんじゃねえ!俺はお前を守りたいんだ、支えたいんだよ!」
「…………はは」
「何笑ってんだよ……」
「すみません……何だかすごく嬉しくて……」

唇を尖らせて拗ねる虎徹の隣に並べ置かれた二つの身体が、煤を纏ってこちらを見ている。父親のバーナビーと母親のエミリー。愛しい家族を模した機械も、虎徹が運び出したのだろうか。緑の視線を追って顔を動かした虎徹は、バーナビーの意図を素早く理解して、照れ臭そうに頬を掻いた。

「二人に"助けを呼んで来い"って、言われたんだろ?」
「…………」
「遅くなって悪かったな」

長い睫毛の隙間から、温かい涙が溢れて落ちる。一筋、二筋、後は涙の流れるままに。バーナビーは生まれて初めて、大声を上げて泣き叫んだ。ずっと目を逸らし続けてきたけれど、本当は気が付いていた。郊外にある屋敷を出た四歳児が、火の手が回りきる前に助けを呼べる筈などないこと。死を悟った両親が、幼い息子を外へと逃がす為に「外に出て人を呼んでこい」と言ったこと。何があっても自分達のところへと戻って来ることがないように。……悲しくも美しい愛だ。それが独り残されたバーナビーの足枷になるとは、露ほども思わなかったのだろう。父さん、母さんと呻いて、バーナビーは虎徹の胸に顔を埋めた。重たい足枷を外したのは虎徹だ。バーナビーは、漸く救われたのだ。

「ありがとう……虎徹さん」

大きな掌が頭を撫でる。頭上でおどけた声が響く。

「"ありがとう"より"愛してる"って言って欲しいんだけどな、俺」
バーナビーは、涙でぐしゃぐしゃに汚れた頬を引き攣らせて、虎徹の欲しがる言葉を吐いた。愛してる。まるでそのままこだまのように、同じ言葉が返ってくる。愛してる。愛してる。何度も何度も、言葉の意味が解らなくなるまで互いの唇で紡ぎ合う。最後の「愛してる」の言葉は、全て言い終わる前に、キスの海へと消えてしまった。

「僕、キスしたの、今日が生まれて初めてです」
「…………あー」

そっか、そうだよなあ。そう言って虎徹が苦い笑みを零したことに、バーナビーは少しも気付かなかった。





「アンタ、また女の子からの人気が上がってるわよォ?笑顔が優しくなったって。羨ましいわ、よっぽど愛されてるのねェ」





チーズタルトを頬張りながら探りを入れるネイサンに、バーナビーは軽く肩を竦めて「さあ」と食えない返事をかえす。麗らかな午後の光差すカフェテラスで、優雅なティータイムを楽しみながら。さりげなく時計の針を追う。約束の時間まで、あと三十分だ。

「幸せ?」
「幸せそうに見えますか?」
「あらヤダ、質問に質問で返すのって意地悪。でも、そうねェ……幸せそうよ。それも、とっても」
「当然ですよ。愛されてますからね」
「それ自慢?」
「自慢兼惚気です」
「フフ」

あの一件から半年が過ぎ、何もかもが元の通りに戻り。バーナビーはまた、斎藤と共に研究に明け暮れる日々の中へとその身を翻していった。次の研究はアンドロイドの量産化と使用エネルギーの大幅削減だ。一朝一夕には答えの出ない難題に頭を痛めることも多いが、志半ばにしてこの世を去った両親の為にも、少しずつ研究を進めていきたいと思う。

「と・こ・ろ・で」
「……何ですか、妙な声を出して気持ちの悪い」
「ね、ね、タイガーって夜の方もすごいんでしょォ?」
「はあ!?」
「だって体力の塊って感じだもの!ああいう男は獣よ獣!で、どんな感じなのッ?」
「な、な、何を……!」

声を潜めて擦り寄ってきたネイサンの頭に落ちた大きな握り拳は、バーナビーの肌の色よりも随分と日に焼けた色をしていた。バカ、と呆れた声が響く。背後からすっぽりと抱きしめられて、バーナビーの頬が真っ赤に染まる。

「俺は至って紳士ですー。な、そうだよなバニー?」
「……虎徹さん」
「ちょっとォ、来るのが早いんじゃない!ハンサムはまだアタシとデートの時間よ?」
「バニーの時間は俺のもんだ。悪ィけど返上してもらうぜ」
「独占欲が強い男はダメよォ」
「バニーは俺に独占されるのが嬉しいんだよな?」
「もう!二人ともいい加減にして下さい!」

艶やかな唇を持ち上げて微笑んだネイサンは、タルトの最後の一欠片を上品に片して立ち上がると、意味ありげなウインクをひとつ残して、エレベーターホールに消えて行った。虎徹の掌が金色の髪を掻き混ぜる。温かい掌に生え際をなぞられて、バーナビーの肩がぴくりと跳ねる。卑怯だ。虎徹の手付きは昼と夜と関わらず、全身が粟立つほど甘い。

「早かったですね」
「まあな」
「それで、結果は?」
「へへー、もっちろん合格!これで俺も晴れてアポロンメディアの社員だ!」
「清掃ですけどね」
「清掃夫な俺は嫌い?」

嘘でも"嫌いだ"なんて言えない。バーナビーは虎徹に夢中で、虎徹もそれを熟知している。虎徹はバーナビーを一番近くで支える為に検体の仕事を続けながら、研究室の清掃業務も纏めて受け持つことになった。二人はこれでずっと一緒だ。それこそ、うんざりするほど毎日、毎日。

「……好きですよ。どんな虎徹さんでも、変わらずずっと大好きです」
「知ってる。お前は俺が俺な時点で俺を選ぶしかないもんな」
「……もう」

今日は週に一度の外食の日だ。虎徹とバーナビーと虎徹の娘の楓と、三人で温かい時を過ごす日。初めは"格好いい"と騒いでいた人を前に緊張していた楓も、今では彼によく懐いている。もしかすると、虎徹とバーナビーの関係にも薄々ならずも感づいているのかもしれない。最近めっきり父離れし始めた楓に虎徹が寂しがるそぶりを見せると、彼女は澄ました顔でこう言うのだ。



「お父さんにはバーナビーがいるでしょ。私はいつかはお嫁に行くけど、バーナビーはこれからもずっとお父さんと一緒なんだから寂しくないよね」



虎徹はバーナビーを離さない。バーナビーは虎徹しか望まない。まるで究極の選択だ。答えは一択、正解は一つ。賞品は幸福、それも一生分の……幸福だ。



「行くぞ、バニー」


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