長い睫毛の下で輝く翡翠の瞳はとても綺麗だ。髪の色味と肌の色味が人より数段薄いが故に、グリーンアイがよく目立つ。「"バーナビーが女だったら恋人にしたい"と思う男はシュテルンビルトに何百といる」と雑誌のコラムで揶揄されるほどの美人に慕われて、悪い気になる男がこの世にいるだろうか。他の誰にも聞かせたことのないような甘えた声で「好きです」と胸元に縋り付かれて、抱き返さずにいられるほど――。



「破綻する前に手を引いておいた方がいいと思うわよォ?」



前触れもなく掛けられた言葉に主語らしい主語はなく、ゆっくりと振り返り視線を向けた先のファイヤーエンブレムの顔にも、表情らしい表情は一つとして浮かんではいなかった。トレーニングセンターの中にある、湿っぽいロッカールームの片隅で。鼻の頭に浮かんだ汗を渇いたタオルで拭き取りながら、虎徹はわざと陽気に嘯く。

「何だよ、急に。賠償金の話か?」
「あらヤダ、いきなりお金の話を吹っ掛けるほど野暮じゃないわよ、ア・タ・シ」
「ハッ、どうだかな」
「他に思い当たる節があるからごまかすんでしょ」
「破綻しそうなモンなんか何も持ち合わせちゃいねーよ」
「そーお?本当にィ?」

追求の手を緩めないファイヤーエンブレムに苛立ち始める心を諌めて、虎徹は軽く肩を竦めた。笑っているのに、心は芯から冷え切っている。乱暴に投げ置いたトレーニングシューズが、ベンチの上で跳ね踊り、ガスンと床の面を張った。思い当たる節がないわけではない。ファイヤーエンブレムの言いたいことは、痛いほどよく理解できる。彼――いや、彼女――は、虎徹とバーナビーの関係を理解した上で、尚且つ苦言を呈しているのだ。少数派の中で生き人間は、内と外を嗅ぎ分ける能力に驚くほど特化していると聞く。バーナビーは内で、虎徹は外。それが彼女の出した"答え"で、決して短くない人生経験に基づいて弾き出されたその答えは、きっと何より正解に近い。
バーナビーから「恋愛対象として好きだ」と告げられたとき、虎徹は正直、困惑した。誰に甘えることもなく独りで生きてきた彼を愛しいと思う気持ちはあれど、それは決して"恋"ではない。頼りになる相棒、年の離れた弟、慕ってくれる後輩、甘え下手な息子。例えられるのはそのくらいで、劣情を根にして拓いていく惚れた腫れたの世界とは、完全にベクトルが異なっている。本心ではそう拒絶しながら、虎徹は彼を受け入れた。俺も好きだよ、お前も同じ気持ちで嬉しい、ずっとこうしたかった。顔をぐしゃぐしゃにして泣き崩れたバーナビーを抱き寄せながら「愛している」と口にした瞬間、虎徹の中の本心は胸の奥へと葬り去られた。汚くて重たい虎徹の恥部。沈澱する、どろりとした本音。

「まだ抱いてあげてないんでしょ」
「うるせーよ」
「でも――」
「お前には関係ねえだろ!」
「……そ。野暮なことして悪かったわね」
「………………悪ィな」

安っぽい蛍光灯に照らされた床が、冷たい色で光っている。今日まで三度、遠回しにベッドへ誘われた。気付かないふりをして避け続けるのはもう限界だ。聡いバーナビーは既に感付き始めている。最後に口付けを交わしてから一週間、バーナビーはもう、虎徹に触れようとはしない。あの美しいな翡翠の瞳が、蕩けることは二度とない。

「……俺だって、分かってんだよ。あいつが望むように愛してやれないことも、破綻する前にケリを付けなきゃいけないことも。……けど、駄目なんだ。俺がバニーを手放せば、あいつはいつか他の誰かを好きになる。そんなの耐えらんねえよ……他の奴の腕の中で笑うバニーを見るくらいなら、俺は……!」

僕のことが嫌いになったら、嘘を吐かずに言って下さい。大丈夫です、離れたくないなんて我が儘を言ったりしませんから。僕、虎徹さんの負担になるのが一番辛いんです。虎徹さんの幸せが僕の幸せだって言ったら言いすぎかもしれませんけど……でも、本当に。僕、虎徹さんには、ずっと笑顔でいて欲しいんです。
最後に唇を重ねた日にバーナビーが口にした言葉を反芻して、虎徹は奥歯を噛み締める。虎徹を愛しているバーナビーと、バーナビーを愛せない虎徹。虎徹から離れることも厭わないと言うバーナビーと、絶対に離れたくないと願っている虎徹。どうして、噛み合わないのだろう。互いを想いあう気持ちには、一欠片の嘘もないのに。

優しい目をした審判が、ハイヒールの踵を鳴らしてゆっくりと遠ざかっていく。彼女はバーナビーにも同じことを告げるだろう。そして、バーナビーは間違いないなく"破綻する前に"虎徹から離れようとするだろう。何度も繰り返してみた映画の結末を思い浮かべるのと同じように、脳裏を駆けていく映像。虎徹の幸せの中に自分の存在を含めようとしない彼は、いじらしくて冷静で賢明だ。……それでも虎徹は破綻するまで、手放すつもりはないのだけれど。
手を握る。照れ臭そうにはにかんで笑う。抱きしめる。大きな身体が腕の中で小さく震える。唇を重ねる。澄んだ緑の海の中に、自分の姿が反射する。マーベリックの手中から奪い返したその瞬間、あの悪魔の心の病が、虎徹にも伝染したのかもしれない。……決して口には出さないが。虎徹はマーベリック以上に、バーナビーの全てを(愛せないのに)愛している。

「……どうしようもねえなあ」

湿っぽい感情は湿っぽいロッカールームに置き去りにして行くしかない。慣れた手つきで携帯電話のリダイアルボタンを連打して、通話口に甘い声が響き渡るのを待つ。コール4回。無機質な音が途切れ、代わりに届く微かな不安を孕んだ声。

「バニー……今日、暇か?予定ないなら俺の部屋に泊まりに来いよ。お前、ロゼワイン好きだろ。いいやつ貰ったからさ、二人で一緒に飲まないか?」

去り際「馬鹿ね」と笑ったファイヤーエンブレムは、きっと誰より何より正しい。狂っているのは虎徹で、それを狂わせたのはバーナビーで、堕ちていくのは二人だ。


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