瞼の上に乗った睡魔を冷たいシャワーで叩き落とす。母親譲りの強い癖毛は、女物の洗髪料を使わないとすぐに痛んで絡まってしまう。行きつけのサロンで見繕ってもらったシャンプーは南国のフルーツをイメージした甘ったるい香りのもので、男が使うには随分と敷居が高いようにも思われたが、ボトル一本使い切る頃には、それにもすっかり慣れてしまった。バスタブの底に渦を巻く泡混じりの水を爪先で遊んで、バーナビーはふ、と口許を緩める。最初の印象が悪ければ悪いほど、振り返しも大きくなるというものだ。――人間しかり物しかり。

首元に散る鬱血の跡を長い指の先でなぞって、鏡に顔を近づけながら、ひとつひとつ確かめるように愛の痕跡を数えていく。波打際に残された足跡のように、あっけなく消えてしまうものだと分かっているからこそ、それがそこにある間だけでも、大切にしていたいと思う。明日には求められなくなるかもしれない。来年の今頃、虎徹は隣にいないかもしれない。バーナビーがネガティブな話題を口にするたびに、虎徹はいつも顔を顰めて「下らない話はやめろ」と言う。滅多に愛を口にしない虎徹の気持ちを確かめる為に、わざとらしく負の言葉を吐き出して。それでも離さないでいてくれるという事実につかの間の充足を感じた後で、試すような真似を繰り返す自分を殴り飛ばしたくなる。排水溝の中に消えていく泡に視線を落として、バーナビーは再び、形のいい唇の端を斜めに持ち上げた。矯正していない視力では、全てがぼやけてろくに形も分からない。昔はずっとこうだった。愛が見えないが故、愛を求めることもなかった。昔と今。世界はがらりと変わったけれど、何故だろう――不思議と、どちらの世界にも正解は無いような気がする。

「……バニー、シャワー浴びてるのか?」

物思いに耽っていたバーナビーの耳に、愛しい人の声が届く。気持ち良さそうに眠っている虎徹を起こさないようにと、足音を忍ばせてベッドから抜け出したつもりだったが、殆ど時間を置くこともなく、彼も覚醒したらしい。水音で分かるだろうと苦笑しながら、それでもバーナビーは素直に「浴びてますよ」と返した。柔らかいバスタオルで清め終わった身体を包み込み、長い手足を丁寧に擦り上げていると、突然何の断りもなく、バスルームの扉が開いた。下着一枚の虎徹が、寝癖のついた髪を掻き上げながらずかずかと中に入ってくる。アーモンド型の目の際をきゅっと持ち上げて、バーナビーはかしましく虎徹を咎めた。親しき仲にも礼儀あり、だ。

「もぉ、虎徹さん!入るなら先にノックくらいして下さいよ!着替えはちゃんとベッドに出しておいた筈ですよ?」
「悪ぃ悪ぃ、ついでに俺もシャワー浴びようと思って」
「それならすぐに出ます。少し待っていて下さい」
「一緒に入ればいいだろー?」
「でも、僕はもう浴び終わりましたから」
「んなの気にすんなって」
「わ……ちょっと、虎徹さん!狭いですって……」

人の話を聞かないのが虎徹。頭では分かっていても、気恥ずかしさに負けてまた可愛くない反発してしまう。下着姿のままバスタブに滑り込み、昨晩の情事の余韻を漂わせた身体を寄せてきた虎徹に、バーナビーは熱い視線を向けた。待ち侘びたように唇が重なる。汗ばんだ腕に抱き込まれて、一段と心臓が忙しなくなる。

「ベッドから出る時は俺にひと声掛けろよな」
「寝ている人に声を掛けろと?」
「起こせよ!」
「起こしませんよ!」
「じゃあ俺が起きるまでベッドから出るの禁止!」
「それこそ意味が分かりません!虎徹さんだってトイレに立ったり水を飲みに行ったりするでしょう」
「……そりゃ、するけどよ」

夜の間に伸びた髭が、肩に当たって擽ったい。恐る恐る手を伸ばして硬い髪を掻き混ぜると、お返しと言わんばかりに濡れた髪を指で撫で遊ばれて、吸い寄せられる磁石のように、そのまま舌を絡めあう。5センチの身長差はキスの妨げにもならない。ほんの少し高い位置から鼈甲色の目を覗くたび、愛しさで息が止まりそうになる。好きがどんどん積み重なって、虎徹の上にのしかかって。いずれは潰すか崩れるだろう。虎徹が潰れるのが先か、バーナビーが崩れるのが先か――。

「するけど……嫌なんだよ。目ェ覚まして、隣見て、いるはずのお前がどこにもいないのが。よくわかんねえけど、とにかく嫌なんだ」
「……虎徹さん?」
「だーっ、やめやめ!今のナシ!忘れろ!な!」

茶化して笑う瞳の奥に、自身が抱くものと同じ"不安"を読み取って――バーナビーは躊躇せず、虎徹の胸に抱き着いた。バーナビーがネガティブな話題を吐き出すたびに、虎徹も怯えていたのかもしれない。愛する人を亡くした彼は、きっとバーナビーよりもずっと、失うことを恐れている。

「虎徹さん、あったかい」
「お前もな」
「……あったかいから、好きです」
「っ……何だよ、急に!」

体温と心。どちらも触れるとじんわり熱い。鼻に馴染んだ南国の香りが、明け方のバスルームに甘ったるい色を添えている。マイナスからの振れ幅は大きく、上を見てもそこに限界はない。傷だらけの分厚い肩に吸い付いて愛を刻み付けながら、バーナビーは長い睫毛を揺らした。積み上げた不安の欠片を全て取り除いたその先に――過去にも今にもない愛の"正解(答え)"が、隠されている――そんな気がして。


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