氷の浮いた麦茶と4つに切って皿に持った羊羹。軒下に吊された風鈴が、風に揺られてチリリと歌う。

衿元の緩んだTシャツの裾から、手を差し込んで腹を掻く。六つに割れた腹筋は、現役引退と共にどこかへ消えてしまった。なおざりの腹筋運動や稀に行うランニングでは、中年らしからぬアスリート体型を維持することなど到底、出来る筈もない。
二つ折りの座布団を枕に見る夢は、妻に支えられながらトップマグで頑張っていた頃と、生意気な相棒に尻を叩かれながらコンビヒーローとして活躍していた頃の、二つが"何故か"とても多い。ヒーローを辞めると決めたのもそれを実行に移したのも自分自身だというのに、夢の中で犯人を追いかけて走る虎徹は、現実を生きる自身より格段に生き生きと動き回っていて。家業の手伝いと畑仕事に勤しんでいる今の自分が、まやかしなのではないかとすら、考えてしまう。……定年退職後のサラリーマンはみな、こうして老いていくのだろうか。風鈴の音に重なって、油蝉の鳴き声が聞こえる。暦は7月に移り、野山の色も一層、緑の色を深め始めた。母親は町内会の旅行、娘は2泊3日のサマーキャンプ。既に折れかけた大黒柱は、夕刻の配達が始まるまで"用無し"だ。

「…………」

座布団の下に隠しておいた変型サイズの冊子を出して、慈しむようにページを捲る。娘の目に留まったら「勝手に私のもの持ち出さないで!」と怒鳴られるに違いないが、虎徹が隠し持つこの冊子には"バーナビーのサイン"が刻まれていない。……シュテルンビルトを去る時に、大型書店でこっそり同じ写真集を買い求めたのだ。何度も繰り返し眺めているせいで、虎徹が所持している方は、端がすっかりヨレている。
笑顔の写真を眺めて零す溜め息が、熱い。ツンと尖った鼻が好きだ。メロンソーダを彷彿とさせる甘ったるい緑の瞳も、柔らかい唇も、緩いカーブを描く長い睫毛も。真っ直ぐすぎる性格も、丁寧な言葉遣いも、愛情表現がやたらと子供っぽいところも。思い出すたびに胸の奥がつきんと痛痒くなるほどに、愛おしくて可愛くて仕方がない。
週に1度届くバーナビーからのメールは、いつも丁寧で簡潔だ。近況、体調、気遣い。……虎徹に会いたいという言葉は、今のところ一度も、目にしていない。
厚手の紙の上で微笑む愛しい恋人に軽くキスして、虎徹はううんと伸び上がった。日が西に傾き始めている。そろそろ配達に行く時間だ。





「いつもありがとうね、虎徹君」

1ダース入りのビールケースを二つ纏めて抱え上げて、小料理屋の裏口を潜る。間もなく60を迎える女性に運ばせるのは忍びないと、虎徹が始めた善意のサービスだ。業務用の冷蔵庫の中にビールの瓶を仕舞いながら、女性が目を細めて笑う。

「すっかり酒屋さんねえ。こうして見ると、酒屋の旦那さんが若かった頃にそっくりだわ」
「そーっスか?まあ俺ももう若いってほど若くないんスけどね、はは」
「あら、まだまだ若いわよ。うちの娘も、虎徹君が配達に来るたびソワソワしちゃって」
「もう、お母さん!余計な話はしなくていいから」

割烹着に身を包んだ女将が、暖簾の裾を上げて顔を覗かせる。虎徹よりも5つほど若いその女将は、近所でも評判の黒髪美人だ。母親似の口許をにっこり上げて、虎徹にゆっくり頭を下げて、彼女は再び奥へと消える。この慎ましさが評判に色を添えているのだろう。髭の生えた顎に手を当てて、虎徹は他人事のようにそう思った。

「ふふ、あの子ったら、照れちゃって。昔っからああなのよ。好きな人には引っ込み思案」
「まーた、俺を持ち上げたって何も出ませんよー?あ、粗品のタオルならいつでも持って来ますけど!」
「お世辞じゃなくて、本当のこと。……虎徹君は、再婚を考えたりはしないのかしら?だってあなた、まだ十分に若いじゃないの」
「…………」

冷蔵庫から溢れた冷気が、汗ばんだ皮膚を撫で下ろしていく。虎徹さん。舌足らずの甘い声が、耳の奥に蘇った。"虎徹さん"。落ち着いた金の髪が、脳裏をふわりと横切っていく。

「……死ぬまで側に居て欲しい人は、もう決まってるんで」
「あら……そうだったのね。野暮なこと聞いてごめんなさい」
「や、俺の方こそ変な空気にしちゃって!すんません!」

ケースに空瓶を詰め込みながら、虎徹は八重歯を見せて笑った。相変わらず、隣は空いたままだけれど――"ここ"はアイツの指定席だから――誰かを代わりに置くなんて、そんな不義理な事は出来ない。
天ぷら油のいい匂いに胃袋を刺激されながら、ケースを担いで出た店の前。見慣れた自転車に乗って近付いてきた兄の村正を視界に留めて、虎徹は怪訝に眉を潜めた。配達はここで終わりの筈だ。

「何だよ兄貴、息切らして。もう配達終わったぞ?」
「いや、さっき店の近くでお前の相棒の……金髪の子を見掛けてな。家には誰も居ない、虎徹ならすぐに配達から帰ってくると引き止めたんだが、『会う約束していた訳ではないので』とか何とか……っおい、虎徹!お前、バンは……!」
「悪ィ、後は任せた!」

最後まで聞く耳も持たずに、車のキーを投げ渡す。奪い取った自転車はサビてあちこちガタが来ているが、走って行くより余程かましだ。野山に囲まれた田舎町の景色を左右に流しながら、虎徹は必死でペダルを漕いだ。腹筋と背筋をサボっていたツケがこんなところに掛かってくるとは、夢にも思っていなかった。
商店街を抜け、バス停を過ぎ、とうもろこしの畑を越えて。夕焼けが空を染め上げる頃、漸く、見慣れた背中を見付けた。根本が折れるほど強くペダルを踏み込んで、声の限りに名前を呼ぶ。

「っ……バニー!」

虎徹しか呼ばない、唯一無二の愛称。長い足が動きを止め、小さな顔が呆れた表情をこちらに向ける。

「もぉ……僕の名前はバーナビーですよ、虎徹さん」

乗り捨てられた自転車が、支えを失い地面に伏した。紙の上の笑顔よりもずっと綺麗で無防備な笑顔に感情のままのキスをぶつけて、一段と細くなった腰に力いっぱい腕を回す。甘い匂いだ。懐かしい、けれど忘れたことのない匂い。長い間空きっぱなしだった指定席の恨みを晴らすように、唇で、指で、隙間を埋める。メロンソーダ色の瞳から零れた一粒の雫は、不思議なほど澄んだ色をしていた。

「どうしても虎徹さんに会いたくなって、我慢が出来なくて……」
「ああ」
「来ちゃいました。すみません」
「馬鹿、会いたいなら会いたいって素直に言えよお……」
「そういう虎徹さんだって、僕に会いたかったんじゃないですか?」
「……うるせー」
「寂しかったくせに」
「お前ほどじゃねえよ」
「ふふ」

甘い夢よりも甘い現実。曖昧だった空蝉の自分に、再び燃え立つような感情が戻って来るのを感じながら、虎徹はすんと鼻を啜った。遠くで、油蝉が鳴いている。

「行くぞ、バニー」
「えっ……」
「もちろんうちに泊まってくだろ?田舎だし、俺一人じゃろくにもてなしてもやれねえけど……チャーハンくらいなら、作ってやれるからさ」
「…………!」

体温の低い手を取って、自転車片手に田舎道を歩く。夕焼けが闇に変わる頃、人目を忍んで唇を重ねて。互いにしか埋められない空席を、互いで確かめ合う――その為に。


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