僕には父親がない。僕には母親もない。僕が四歳の誕生日を迎えてすぐ、二人は揃ってこの世を去った。クリスマスの装飾に使用していた燭台が倒れ、絨毯に引火して両親ごと家を焼き潰したのだ。物心が付くか付かないかの頃の出来事なので、事故の記憶は断片的にしか思い出せないが、真っ赤な炎の中で悶え苦しむ両親の姿を今でも時折、夢に見る。





究極の選択





人工血液の温度は35度から38度の間に保っておかなければいけない。それ以上温度を低くすると血液が凝固してしまうし、逆に温度が高すぎると、油分が熱されてエラーの原因になってしまう。耐圧試験機の中から腕のサンプルを取り出して、バーナビーはまじまじとその艶やかな皮膚を眺め回した。高密度のシリコンを使用している為、見た目も触感も人間の皮膚そのものだ。力無く垂れた手首には、毛穴までもがしっかりと作り込まれている。

「……見た目は問題なし、ですね。内部の血管に損傷がなければ、これを実装してデータ取得に挑みましょう」
「………………」
「あ、斎藤さん、マイク、マイク。スイッチを入れてくれないと、全く聞き取れません」
『……まない、バーナビー!サンプリング用の人間はこちらで手配している!遠慮なく研究に没頭してくれ!』
「言われなくとも」

母親譲りの高い鼻。そこに乗せられたシンプルなデザインの縁無し眼鏡は、オーダーメイドの特注品だ。試験管やモニタと睨み合う職に就いているおかげで、乾燥に弱いコンタクトレンズとは無縁の生活を続けている。同僚の中には「コンタクトにした方がいい」としきりに勧めてくる奇特な輩もいたが、バーナビーが自分のラボに篭るようになってからは、そいつさえ気安く声を掛けて来なくなった。23歳の若さで個人ラボを持つ事を許された、若き天才バーナビ・ブルックスJr。今や、アンドロイドの研究者の間で、彼を知らぬ者は一人とて存在しないだろう。

「少し休みます。サンプルが来るのは今日の午後からですよね?」
『そうだ!』
「では、到着し次第、連絡を入れて下さい」
『任せろ!』

ちぎれた腕や剥き出しの脳が入った培養液の目の前で、オートミールをミルクにぶち込んだだけの昼食を取る。最後にラボを出たのは一週間前で、その時も着替えを購入しただけでここに戻ってきた。高級マンションの上層部に部屋を借りているが、最近は殆ど物置に成り下がっている。勿体ないのかもしれないが、バーナビーにとってはそれすら最早"どうでもいい"のだ。実験用具と機械に囲まれた研究室以上に、居心地のいい場所などある筈がない。そこにある腕やら脳やらは、屍ではなく自作の芸術品なのだから――。
バーナビーは、銀のスプーンに映った自らの憂い顔を見つめて、小さくため息を零した。父親と同じグリーンアイ。線の細い女顔は若かりし頃の母と瓜二つで、卵型の輪郭に流れる髪は透き通るような蜂蜜色だ。美人だのハンサムだのという褒め言葉を、耳が腐るほど聞かされてきた23年の人生。愛を告白してきた女は皆、口を揃えて「顔だけの男」とバーナビーを罵った。「恋愛にも貴方にも興味がない、下らない事に僕の貴重な時間を使わせないでくれ」。その一言で、大抵の人は離れて行く。

「下らない……」

綺麗な顔も優秀な頭脳も、幸せに直結したりはしないのだ。深皿の中のオートミールにざっくりとスプーンを差し入れて、バーナビーは静かに首を振った。目的の為なら、何を犠牲にしたって構わない。バーナビーの瞳に映る"未来"に、他人の姿は存在しない。……それこそ、当たり前のように。





―――





午後3時。予定の時刻を一時間ほど過ぎて漸く、斎藤から連絡が入った。"元アスリート様"は時計の読み方さえ知らないのか、と苛立ち気味に唇を鳴らして、バーナビーはマイクに歩み寄る。

『バーナビー、サンプリング用の検体が来たぞ!鏑木・T・虎徹、35歳だ。去年まで現役のアスリートとして活躍していた男で、心身共に健康そのもの!』
「35歳?ギリギリですね、もう少し若いのは捕まらなかったんですか?」
「うっせー!だ・れ・が・ギリギリだよ!俺はまだピチピチだっつの!」
「……おや、聞こえていましたか」

研究仲間の斎藤に連れられてやって来た検体は、体力馬鹿を捏ねくり回してそのまま形にしたかのような、ステレオタイプの体育会系男だった。アンドロイド用に筋肉の動きをサンプリングする為とはいえ、ここまで露骨な奴を連れて来る必要もないだろうに。斎藤の応用の効かなさに胸の内側でため息を零しながら、バーナビーはフッと生意気めいた笑みを浮かべる。

「バーナビー・ブルックスJrです。今日から暫く、協力をお願い致しますね」
「うっわ、きもちわりー!なあ、斎藤さん、なんでアレあんな生々しいわけ!?」
「……ボソ…………ボソ」
「はー、あれもアンドロイドの一部になるんスね!すげー」
「……ちょっと、人の話聞いてるんですか?」
「ん?ああ、何、バニーちゃん」
「バ……バニー、ちゃん?」
「バーナビーだろ、いいじゃん、バニーで。肌真っ白だし、充血してて目ェ赤いし」

差し出した左手は、握手として結ばれることなく震える拳に姿を変える。女顔をからかわれた事はあれども、名前を揶揄されたのは、今日が初めてのことだ。眼鏡の下からキッと睨みをきかせても、筋肉馬鹿には全く通用しないようで。斎藤と耳打ちしあっては、工場見学に来た子供のようにあちこち眺め回し始めた虎徹に、言いようのない怒りが込み上げてくる。

「僕はバーナビーです!ふざけた呼び方はやめてくれませんか、おじさん!」
「お、おじさん……!?」
「おじさんですよ!35歳でしょう?僕より一回りも年上なんだから、あなたは立派なおじさん、中年です!」
「お前なあ、年上は敬えって親から教わんなかったのかよ!」
「――とにかく、ここは僕のラボですから!僕の意向に従って下さい。余計な真似をしたら、即刻クビにしてもらいますからね」

子供同士のケンカを彷彿とさせる幼さでギャンギャンと罵り合う二人の相性は、最高なのか最悪なのか。苺味のキャンディに舌鼓を打ちながら、斎藤はぼんやり宙を見上げる。バーナビーが感情を露わにしたところを見るのはこれが初めてかもしれないな、と、まるでどうでもいい事のように、考えたりして。





―――





最悪の第一印象はお互い様、しかし仕事となると話は別だ。筋肉の動きを計るパッチを腕に貼り付けた虎徹は、手術台を改造したベッドの上で落ち着きなく辺りを見回しながら、テキパキと作業を進めるバーナビーに「なあ」と言葉を投げ掛けた。

「バニーちゃん、これ本当に大丈夫なんだろうな」
「…………」
「おーい、バニー?無視かー?」
「……僕はバーナビーです。バニーじゃない!」

生意気なのは相変わらず、だ。絵に描いたような理系美人が暗い研究室に篭って実験に没頭している姿は、その容姿が人目を惹きつける分、余計に狂気じみて見える。割れた腹筋にまで進出したパッチの群れに視線を落として、虎徹はふうっと溜め息を零した。実業団を解雇されてからこの方、本当に録なことがない。無職の父親の行き着いた先が"科学者のモルモット"だと知ったら、娘は自分を軽蔑するだろうか。

「でも、ほんとすげーよなあ。お前が作ってるのって、人間そっくりのアンドロイドだろ?前にちらっと腕見たけど、あれマジで人間のモンだと思ったぜ」
「……高性能のシリコン製人工皮膚なので、見た目は人間の腕そのものです。オイル管を血管っぽく見せるの、結構大変なんですよ?筋肉の収縮なんて、それこそ人間ならではですし」
「だよなあ。介護用アンドロイドとかあるけどさ、ああいうのっていかにも"機械です!"って感じだもんな」
「そう、問題はそこなんですよ。ご年配の方は、機械に世話をされる事を嫌がりますからね。見た目が人間そのものなら、きっと抵抗なく受け入れてくれるんじゃないかと思うんです。義足や義眼にもこの技術を応用することが出来たら、きっと障害で悩んでいる人達にも――」

機械を触る手に力が込められたのを、虎徹は決して見逃さなかった。開発部のロイズ部長から「バーナビーは気難しくて敵を作りやすい性質だ」と聞かされていたが、彼は気難しいのではなく、根っから真面目なのだろう。研究に対する執着心がなければ、ここまでストイックに生きられよう筈もない。唇の端に浮かんだ無意識の笑顔に戸惑いながら、虎徹は慌ててバーナビーから視線を剥がした。不思議と。これ以上見つめていてはいけないような、例えようのない不安感に支配されてしまう。
爪の先で皮膚を掻くような淡い電気刺激が、胸から腕へと移っていく。14インチのモニターに表示された数値が何を意味しているのか、虎徹にはさっぱり理解が出来ないが、嬉しげにメモを取るバーナビーの横顔から察するに、いいデータが得られたのだろう。笑うと目尻が少し下がって、幼い顔になるのが可愛い。

「指輪と時計、外せますか」
「……ん?」
「手首と指の筋肉収縮パターンもサンプリングしておきたいので。指輪と時計、外せますか」

自らの左手を持ち上げて、ここと示してみせたバーナビーに、虎徹は思わず口を噤んだ。時計は外しても構わない。指輪は――出来れば外したくない。研究材料のモルモットに拒否権などないのだと分かっていても、感情がそれを拒むのだ。瞼の裏で、穏やかな笑みを湛えた白い頬が点滅する。腕に指を置いたまま、考え込むように顔を伏せた虎徹に、バーナビーは何を思ったのだろう。時計とマリッジリングとを交互に見遣った彼は唐突に、構いませんよと言葉を繋いだ。

「右手だけで構いません。腕を貸して下さい」
「…………悪ィな」
「別に。早く仕事を進めたいだけですから」

冷たいのに甘い。まるでアイスクリームみたいな奴だ。素直に右腕を差し出しながら、虎徹は犬歯を剥いて笑った。何ヘラヘラ笑ってるんですか、気持ちの悪い。突き放すような嫌味さえ、甘いように感じられるのは……きっと気のせいではない筈だ。





―――





光彩の中に埋め込んだセンサーが、床に落ちた手帳をキャッチする。温度、大きさ。引き絞られた瞳孔があらゆる情報を瞬時に読み取り、CPUにデータを送る。擬似筋肉はワイヤーで、擦り切れないようシリコンチューブに通されている。ぎ、という硬い音と共に、白い腕が手帳を拾い上げる。……ここまで僅か6秒8。動きに硬さは残っているが、アンドロイドとしてはまずまずのしなやかさだ。隣で試験を見学していた虎徹が、興奮気味にガッツポーズをしてみせたのを見て、バーナビーも控えめに口角を上げる。筋肉のサンプリングは上々だ。今のペースで研究が進めば、ふた月と待たずに人間同様の動きを付与することが出来るに違いない。

「すっっっげーな、これ!ロボットだって言われなきゃ気付かねーくらい自然じゃねえか!」
「当然です。この僕が寝る間も惜しんで研究して来たんですから」
「……っとに可愛くねえなあ、お前。ま、俺の筋肉も捨てたもんじゃねーってことだな!最後に一花咲かせられてよかったなあ、俺の筋肉!」
「ちょっと、気安く肩を抱かないで下さいっ!……さて、昼食にしますか。次は14時から、またここでチェックに入ります」
「おう」

眉に掛かった前髪を掻き上げながら頷いた虎徹は、ラボの外に足を踏み出しかけて、再びくるりと向き直った。バーナビーは部屋から出る様子もなく、持ち運び式の小型冷蔵庫からミルクを取り出している。……まさか、それが昼食だとでも言うのだろうか。研究材料として拾われて2週間近くが過ぎたが、上のフロアにある社員食堂でバーナビーの姿を見た記憶がないけれど……そんなまさか。

「なあ、お前の昼飯、それだけなの?」
「え?……ああ、オートミールとゼリーもありますよ」
「……それだけ?」
「……そうですけど」

怪訝な顔で振り返ったバーナビーは、自分は何もおかしなことは言ってないぞと言わんばかりに肯定の台詞を口にした。180ある虎徹より、まだ高い位置に目線があるのだ。大柄な成人男子がオートミールとゼリーで食事を終わらせて、栄養が偏らない筈がない。余計なお世話だと突っぱねられるであろう事は想像するに難くないが、それでも根っからのお節介癖に付いた火は簡単に消したり出来ないから"お節介"な訳で。虎徹は思わず踵を返すと、バーナビーの細い手首に自らの武骨な指を回した。

「そんなモンばっか食ってたら身体がおかしくなるっつの!今日は俺が奢ってやるから、食堂行くぞ!」
「は、あ?……僕が何を食べようと貴方には関係ないでしょう。放っておいて下さい」
「行くぞ!」
「行きません!」
「行・く・ぞ!」
「――っ、ああもう、面倒臭いな!」

折れようとしない虎徹に、バーナビーが渋々、白旗を上げる。心底面倒臭そうに「少しだけですよ」と吐き捨てる横顔を見て、虎徹は満足げに頷いた。一日中暗い部屋に篭っているから、気分まで重たくなってしまうのだ。たまには気分転換も必要。多少強引でも、連れ出してしまえばこちらのものだ。
皺一つない白衣を脱いだバーナビーは、備え付けのロッカーから真っ赤なジャケットを取り出して羽織ると、使い捨てのスリッパをダストボックスに投げ込んで、編み上げのブーツに足を通した。白衣姿ばかり見ていたので失念していたが、この青年はまだ23歳なのだ。若向きな格好に身を包むと、途端に空気が色っぽくなる。

「へー、お前そういう格好もするんだな」
「年がら年中、僕が白衣を着ているとでも?」
「穿った取り方するなよ。似合うじゃねえか、俺は好きだぞ」
「……どうも」

手を離してもまだ、指に細い手首の感触が残っている。きっと、骨格が華奢なのだろう。筋肉の陰影や喉仏の浮いた首は成人男子のそれなのに、手首や腰は心配になるほど細くて薄くて、訳もなくどぎまぎしてしまう。……変な感じだ。自分でも自分の胸に巣食う感情について、うまく説明が出来ない。

「さっさと行きますよ」
「あ、ああ」

整えた髭を一撫でして、虎徹はくるりと光彩を回した。難しい事を考えるのは苦手だ。大切なのは今、それ以上もそれ以下もない。長い睫毛に縁取られた、緑の瞳を真っ直ぐに見据えて、踏み出した足は心なしか重い。筋肉に刺激ばかり与えられているせいだろうか。それだけでは、ないような気もするけれど。

エレベーターで昇ること7階分、足を踏み入れるはガラス張りの明るい食堂。カフェと呼んだ方がしっくりくるような洒落た内装が、居心地の悪さを払拭している。昼時とあって、店内はどこも満席状態だ。研究室の人間だけでなく営業や販売管理、総務からも人が集まっているのだから、仕方のない話なのだが。

「あら、ハンサムじゃないの。珍しいわねェ、滅多に顔出さないくせに」
「この人に引っ張り出されたんですよ」
「いやあ、どーもどーも」

気安く話し掛けてきたのは、研究機器の開発会社のオーナーでもあるネイサンだ。商談か何かでこちらに顔を出していたのだろう。首からぶら下げられた"彼女"の入館許可証には【SEX:♂】の文字が無遠慮に刻まれている。ネイサンはバーナビーの背中から顔を出した虎徹を見て、ワオと小さく肩を持ち上げた。ワイルドタイガーじゃないの、と呟いた彼女の声に、周囲の視線がワッと集まる。……そういえば、彼は元アスリートだと、斎藤が口にしていたような。

「引退試合、見たわよォ!負けなしのまま引退なんてホント、男の中の男ね!」
「いやあ、別に大したことじゃないっスよ」
「ああん格好いい!サイン頂戴!」
「はは…………」

照れ臭そうに頬を掻いてはいるが、その表情は嬉しそうだ。バーナビーは内心、面白くないものを感じながら、長い足を追ってネイサンの手元を覗き込む。ネオ剣道……とは、どういうスポーツなのだろう。日本の文化に疎いバーナビーには、二人の会話がよく分からない。

「あら……試合中はいつもグローブしてたから気付かなかったけど、結婚してるのね」
「――!」
「……ああ、まあ」
「残念だわァ。アタシ、割と本気で狙ってたのよォ」

引き攣った笑みで腰を低くしている虎徹に「行きますよ」と低く囁いて、バーナビーは最奥の二人掛けを指差す。他に空席はなく、いつ横から盗られてもおかしくないほど、辺りには人が溢れている。話を切り上げる口実にするには丁度いいだろう。虎徹はすんなりと同意して、バーナビーの背中を追ってきた。ネイサンに向けて振られた左手の薬指に、銀の指輪が光っている。……外すことさえ憚られる、美しい愛の証。

「……どうでもいい」

検体のプライベートに干渉するほど野暮な性格はしていない。どうでもいい。それがバーナビーの思いの全てだ。アンドロイドの完成。……バーナビーの人生は、その瞬間の為だけに、動いているのだから。





―――





炎の中、倒れたクリスマスツリーに足を挟まれた父が、ううと低い呻き声を上げる。落ちてきた絵画に額を叩かれて気を失った母の足元で、青白い炎がチロチロと舌を出して笑っている。二人の足元に縋り付いた4歳のバーナビーに、出来ることは何もなかった。クリスマスツリーを持ち上げようと伸ばした小さな掌を、父の手が優しく押し返す。

「バーナビー、外に出て人を呼んで来てくれ。父さんと母さんはここで待っているから、早く人を……!」
「おとうさん、おかあさぁん……!」
「大丈夫だ……早く行きなさい!」

泣くことしか出来なかった。父の言葉に頷いて、裸足のまま外に駆け出した。屋敷の外に人影はなく、街角には雪が舞っていた。走って走って何度か転んで、漸く人を掴まえて消防車を呼び、駆け戻ったそこには――燃え盛る炎の中、崩れ落ちていく屋敷の姿があった。父と母はそのまま、二度とバーナビーの元へと戻っては来なかった。"待っている"。――彼等は今でも、渦巻く炎の中、バーナビーの助けを待っている。





―――





悪夢に苛まれて飛び起きた簡易式のベッドの上、吐き出した溜め息が湿っぽく空気を染め変える。裸眼のまま見上げた天井はただ暗く、沈んだ色に心まで滅入り始めてしまう。最悪の誕生日だ。最高と最悪の振れ幅が1ミリ程度しかないバーナビーにとっては、大した事でもないのだが。
重たい身体を持ち上げて、洗面台で顔と歯を丁寧に磨くと、バーナビーは早々に研究室へと足を向けた。研究室と仮眠室の間には、薄い扉一枚の、曖昧な境界線しかないのだ。突貫工事が災いしてか、扉は押す度ギィギイ喚く。

「明日は必ず帰るからな、楓!仕事も順調だし、早くお前の顔が見たいよ。……そんな冷たいこと言うなよお。ちゃんと土産も買って帰るからさ」
「………………」
「愛してるよ、楓!それじゃあな、また明日電話す――っと、ああっ!切りやがった!」

ドアに手を掛けた瞬間、聞き慣れない甘え声が耳を突いて、バーナビーは思わず足を止めた。電話をしているのは虎徹で……相手は奥さん、なのだろう。愛おしくて堪らないといった声色にごちそうさまと肩を竦めて、バーナビーは丁寧にノブを回す。

「早いですね」
「よ、バニー。斎藤さんからここの社員食堂のミールカード貰ったからよ、ついでに朝飯も食っとこうと思って」
「そうですか」

Tシャツの上に白衣を羽織りながら、バーナビーは口角を持ち上げた。斎藤と虎徹の馴染み具合は、傍目に見ても微笑ましいものがある。極端に声が小さいせいで他人から無口だと誤解されやすい斎藤だが、本来の彼は大の話好きなのだ。斎藤さん斎藤さんと無邪気に懐かれたら、可愛がりたくもなるのだろう。深爪気味の指に抱かれた携帯電話には触れないまま、バーナビーはてきぱきと身支度を整える。

「そういや、お前、今日誕生日なんだってな」
「……誰に聞いたんです?」
「……名前分かんねー。そこにプレゼントとカードが置いてあるから、それ見ればわかるだろ」
「だから何が?」
「俺も知らないんだよ。食堂行ったら『これバーナビーさんに渡して下さァいお誕生日のプレゼントですゥ』っつって、いきなり押し付けられたんだよ」
「…………」
「やっぱお前、モテるんだな。相手、すげえ美人だったぞ?」

虎徹と食堂に行ったことで、二人に関わりがある事が知れ渡ったのだろう。バーナビーは滅多に研究室から出ない。狡猾であざとい女は、まず始めに虎徹という名の外堀を埋めにかかったのだ。どうでもいい、と吐き捨てたバーナビーに、虎徹はそれ以上何も言わなかった。幸福の中に生きる人間には、敢えて孤独を選んで生きる人間の気持ちなど分かる筈もないのだ。……どうでもいい。電話番号とメールアドレスが書かれたメモは破られて、ダストボックスの肥やしになった。バーナビーは相手の名前に、一度も目を向けなかった。

年に一度の誕生日。生意気で知的な雇い主は、今日で24歳を迎えたのだ。仕事終わり、ショッピングモールの中をウロウロと歩き回りながら、虎徹はううんと頭を抱える。誕生日の夜を独り研究室で過ごす彼に何か届けてやりたいと思ったのは、打算のない純粋な好意からだ。プレゼントを喜ぶようなタイプの人間でない事は朝の一件で把握済みだが、お節介の芽は"そんな事"では潰えない。散々歩き回って悩んで、ワイン売り場で手頃なボトルを幾つか見繕ったあと、売れ残りのケーキに手を伸ばす。チーズとクリームとチョコレート。ターキーもあった方がいいだろうか。チョコレートのプレートに【HAPPY BIRTHDAY BUNNY】の文字を入れてもらいながら、虎徹はフッと息を吐く。まだ学生だった頃――同じモールの同じ店で、恋人に渡す誕生日ケーキを買った事があった。初めての恋人は妻になり、掛け替えのない存在はもう一つの――掛け替えのない命を産んだ。彼女がこの世を去ったとき、もう二度と誰かを愛することはないだろうと考えた。……今から、5年も前の話だ。

「お待たせしました」

腕の時計は午後8時を指し示している。流石にもう眠っているという事はないだろう。柔和な笑顔の店員が差し出した箱を恭しくも受けとって、虎徹は研究室へと靴を向ける。介護用アンドロイドの展望を語っていた時のバーナビーは、本当に綺麗な目をしていた。艶やかな唇が弧を描いて持ち上がる様は、溜め息が出るほどに可愛くて。またあの笑顔がみたいと思った。長く一緒に居られないことが分かっているからこそ――余計に、そう、強く。







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