これはあなたへの当て付け。そして、最初で最後の。
「こんばんは」
古びた木製の扉が開く。コツコツと靴音が静かな室内に反響する。
月明かりに映し出された黒髪の男。
私はこの男を知っている。
今夜は満月だ。電気を付けなくても辺りがよく見える。白くはためくカーテン、バルコニーへ近づいてくる男の冴えた眼差し、花瓶に活けられた花、赤い返り血、男の手に握られたナイフ。
クロロ=ルシルフル。
それが男の名前だ。今しがた屋敷の主人を殺し、使用人を殺し、私のいる部屋へやって来た男の名前。
「こんばんは、クロロ」
バルコニーの手すりに身体を預け、穏やかに挨拶を返す。男の足が止まった。
「…驚いた。俺の名前を知っていたのか、名無しさん」
「…」
彼の本名を知ったのはごく最近だ。半年前に知り合って以来、呼び続けていた名前は偽名だった。
私に向けられていた笑みも、言葉も、彼に関する全てが、偽り。
「何故分かった?」
「…」
「完璧に演技していたはずなんだが。いつばれたのかな…」
「ねぇ、」
独り呟くクロロに向かって、私は手に持っていた懐中時計をかざす。
「これ、何だか覚えてる?」
「?いや」
「…そう」
私は滑らかな金色の懐中時計を撫で、ハンカチに包みポケットへしまった。
「…何だ」
「形見」
「誰の?」
「…」
私はじっとクロロを見た。
「本当に分からないなら、貴方は案外…」
「馬鹿なのね」
クロロが僅かに目を丸くする。
「…前から思っていたが」
コツコツと靴音が近づく。
「お前は案外…」
私の顎に指が触れ、上向きにされる。
「面白いな」
口角を上げて嗤うクロロが目の前にいる。
抵抗しようとしたけれど、私が動くより先に腕を掴まれ首筋に歯を立てられた。
「いっ…!」
「これは、爺さんの形見?」
耳元で囁かれた瞬間、凍りつく。
クロロの手が私の太股あたりをまさぐり、服の上からポケットにある時計に触れた。
「爺さんの『声』でも聞いたか」
「…っは、…貴方って本当に…」
最低。
全部知っていたんだ。
私の能力も。
「興味深いな。死者の声が聞こえる能力…形見に触れるだけでいいのか?」
「…」
「欲しい」
名無しさん、と名前を呼ばれる。
少し前の私なら、嬉しくて脳が蕩けそうになっていたかもしれない。
今は…
くらくらと目眩がする。
怒りで、脳が焼き切れそう。
「今日は爺さんの遺品でも、父親のコレクションでもなく、お前を盗りに来た」
あぁ…狂ってるわ。
「貴方に家族を殺された…それなのになんで、貴方のものにならなきゃいけないの?」
「お前は独りだ。この家と繋がりがある者は全て葬った。引き取られる親戚もいない…俺と一緒に来なければ死ぬぞ」
「…」
「もしくは人買いに売られて奴隷になるか?」
貴方に従うくらいなら、奴隷の方がまし。
そう言ってやりたかったけれど、口から出たのは気だるい溜め息だけだった。
「俺と来い。名無しさん」
夜色の瞳を見つめ返す。
何故、この人は。
躊躇いなく人を殺した後に、平気で嘘をついて。
こんなきらきらした瞳で残酷な、
残酷、な。
「名無しさん?」
「クロロ…私、賭けを、してたの」
呼吸が苦しくなって、ヒュウと息を吸う。
「私、勝ったの、かな…」
ふっと微笑んだその時、喉の奥から熱いものが競り上がる。気道を塞がれ苦しくて、吐き出したのは真っ赤な血。
「!」
「ごほっ…もしかしたら、来ないかもって…思ってた」
毒か?
クロロの口がそう動く。
「…貴方が来なかったら私の負け」
私は独りで逝く。
「あなたが、来たら…」
あなたが、来てくれたら。
きっと、何も変わらないのでしょうけど。
どうせ罪悪感なんて、微塵も生まれないでしょう。
でも、いいわ。
最期に驚いた顔が見れたから。
あなたが欲しいと思っても、手に入らないものがあるってこと。
それだけで、ちょっと満足してしまうなんて、
私…本当に救えない。
「名無しさん…」
「霊魂、って…信…る…?」
もう目が霞んで見えない。
あなたがしたこと、絶対に許さない。
あなたの悪事が、地獄で裁かれるその時を、
せいぜい怯えて待ってなさい。
最後の最後に「信じるよ」と優しく呟く声が聞こえた気がした。