窓から穏やかな陽光が差し込む室内。
机に置かれたマグカップは白い湯気を立ち昇らせている。
コーヒーの香り。ラジオから流れるクラシック。
全てが休日の平穏そのもの・・・・だった。
バターンッ
「クラピカごめん!今日泊めて!」
「!?」
突然騒々しく開けられた扉の前には、同じアパートに住む隣人――名無しさんが息を切らせて立っていた。
「どうしたんだ?名無しさん」
ソファーに座り本を読んでいたクラピカは驚いて部屋の入り口に目を向ける。
名無しさんは大きな鞄を右肩に背負い、潤んだ瞳でクラピカを見つめた。
「もうダメ…私はあの部屋に帰れない。あいつがいる限り…!!」
へなへなと床に座り込む名無しさんに駆け寄り、小刻みに震える肩に手を置く。
(一体何があったというのだ…)
名無しさんの様子は尋常ではない。普段から落ち着きがなく突拍子のないことをよくする彼女だが、今日は稀に見る余裕のなさである。
クラピカが困惑していると、ふっと名無しさんから独特の香りが漂った。
(まさか、)
クラピカは名無しさんの手を握り、玄関へと向かう。そのまま外に出て隣の部屋、つまり名無しさんの部屋の扉に手を掛けた。
「ちょっ…ちょっと待って!開けないで!!」
瞳に涙を溜めた名無しさんが訴えるが、クラピカはかまわずドアを開け放つ。
もわあっ
部屋に充満する白い煙が、中から溢れ出てクラピカを包んだ。
**********
「…つまり、家にゴキが出たので錯乱して思わず霧のバ●サンを噴出させてしまったと…そういうことだな?」
「そういうことです。すみません」
(…どおりで殺虫剤の匂いがしたわけだ)
クラピカがため息をつくと、名無しさんはビクッと身体を震わせた。
「お願い!クラピカの部屋に泊まらせてくださ「断る」
(早っ!)
「虫一匹で大騒ぎしていたら、これから先暮らしていけないぞ?…とにかく、バル●ンを止めてくるから待っていろ」
再び名無しさんの部屋の扉を開けようとするクラピカを、名無しさんが引き留める。
「無理だよ!もう煙が充満していて息ができない状態だし…ゴンみたいに約10分間息を止めていられるなら話は別だけど」
「…私には無理だな。仕方ない、1〜2時間経てば収まるだろうからそれまで私の部屋で待とう。ただし泊まるのは駄目だ」
「ええー」
クラピカは不満そうに口をとがらせる名無しさんの背中を押し、部屋へと戻らせた。
**********
とりあえずクラピカの部屋に上がり込むことに成功した私。
だが、本当の目的はまだ果たされていない。
クラピカが本を読んでいる隣で、私はじーっとテレビを見続けていた。
日も暮れて来た頃、クラピカは本から顔を上げて私を見る。
「そろそろ戻っても大丈夫じゃないか?」
「え!ああ…うーんとまだだと思う。間違って3個くらい作動させちゃったから、バルサ●」
「聞いてないぞ!というか錯乱しすぎだろう!」
その後クラピカは「大体、名無しさんはいつも落ち着きが無さすぎる…」とお説教モードに入り始めたので、私はソファーの上で数時間正座を強いられる羽目になった。
なんやかんやで時間は過ぎ、一緒に夕食を食べた後お風呂を借りることにまで成功した。
着々とミッションクリアしている私に、クラピカはもう帰れとは言わなくなった。
(諦めたのかな?)
「あのさ、クラピカ」
「なんだ」
「突然だけど…明日って何の日か知ってる?」
「明日?…確か鉄道電化の日だな」
「…へえーさすがクラピカは博識だネ。いっそ恨めしいよ」
「何がしたいんだ君は」
クラピカが呆れた視線を向けてくる。分かってる、これが私の我儘なんだってことも、私はクラピカにとってはただのお隣さんなんだってことも、そんな他人にとっての特別な日をクラピカが知っているはずがないということも。
(分かってるけど、せめて…私の望みは叶えさせてほしい)
どこまでも我儘な自分が無性に情けなくなり、膝に顔を埋めてソファーの上で丸まっていると、ふわっと良い香りが降って来た。
「…?」
顔を上げると、すぐ目の前に可愛い花束。そして、照れた顔をちょっと横に背けているクラピカがいた。
「な、んで…?」
「すまない…本当は知っていた。明日は君の特別な日、だろう?」
「!!」
二の句が継げないでいる私の手を取り、クラピカは優しく微笑んだ。
「少し早いが…誕生日おめでとう、名無しさん」
“誕生日を迎える時は、特別に想う人と一緒にいたい”
1番ほしかったものを貰えた私は思いきりクラピカに抱きついた。
最高の言葉を、君にそして、抱きついた直後、床を徘徊する黒い生物と目が合ってしまい、私は叫ぶ暇もないまま失神したのだった。