「雨が降っているよ」

地面を叩く雨粒の音は何処か遠い。買ったばかりのヘッドフォンを両耳に装着し、僕の声がかき消される程の大音量で彼女は音楽を聴いている。歌詞になり損なった音の欠片が、さわさわざわざわと波のように漏れ聞こえ、あぁ、本当に僕の声は聞こえていないんだなぁ、と感嘆にも似た溜め息が零れた。
彼女は何処から見つけてきたのか、細かいアルファベットがびっしりと並ぶ英字新聞を鼻歌混じりに読んでいる。ヘッドフォンから転がり落ちるギターリフとは似ても似つかない、物悲しげなバラードを口ずさむ。

「英字新聞って格好良くない?」

バラードの合間に響く彼女の地声は少し低い。音域の高い歌は苦手とカラオケで唇を尖らせるくせに、こうやって唄う歌は決まって裏声を必要とするものだ。
漸く言葉を発した彼女の横顔を眺めるが、元より返答は求めていないらしい。一度も僕を見ることなく、細い指先はぺらりぺらりと新聞を捲っている。普段から洋楽を聴く彼女の事だから、格好良い、と言いつつもきちんと文章を読み取っているのだろう。…ところでその新聞、上下逆さまですよ。

「………」

がさりと、彼女は新聞を放った。
ばさばさと新聞紙が舞い、残されたのは不機嫌そうに窓の外を睨む彼女と、その横顔を見つめる僕、そしてそんな二人にソファ代わりにされるベッドだけ。

「雨」

ぽつりと呟いた彼女は、はぁ、と息を吐いてヘッドフォンをむしり取った。途端、激しいギターリフが僕の体を突き刺し、抉り、そのまま背中側へと抜けていった。思わず腹に手を当てると、重苦しいドラムの音が手の甲にぶつかり、床へと落ちた。気の所為だろうか、じんじんと体の中心が痛い。

「まるで爆弾のようだよ」

ウォークマンの電源を切った彼女はヘッドフォンを床に放り投げた。ぴん、とコードが一直線に伸びたかと思うと、その後を追ってウォークマンが床へとダイヴする。

「腹に穴が空いたみたいだ」
「良いじゃない、風通しが良くて腐らないわ」
「内臓が出ていってしまうよ」

あら、と鉛筆で一本線を引いたような細い眉が跳ね上がった。彼女はまだ窓の外を見ている。

「だったら私のをあげるわ」
「で、君はどうするんだい」
「落っこちた貴方のを貰うの」

それは大層素敵だね、年齢制限が必要なくらいグロテスクだけれど。

「いつかは雨も止むのかしら」

紅い唇は、先週発売の新色のルージュを引いた所為だ。この明度の低い部屋に似つかわしくない、紅い唇。ぱくぱくとそれが動く度、僕の心臓を見えない手がくすぐっていく。酷く胸が苦しかった。

「そりゃあ、いつかはね」

テレビの中のお姉さんは日本列島を指で差しながら、あと三日は雨だと言っていたが。綺麗なお姉さんだったけれど、耳の形が僕の好みではないお天気お姉さん。そういえば、他局のアナウンサーと結婚するらしい。
彼女の唇が上下するのを見ながら、ふとそんな事を思い出した。

「良かった、このままではぐずぐずになってしまうもの」
「地面が?」
「雨が止むまで外に出たくないわ」

立ち上がった彼女はウォークマンを拾い上げ、もう一度ヘッドフォンを両耳に装着する。ぺたぺたと剥き出しの足がフローリングを行き来し、再び彼女を僕の元へと連れてきた。

「雨は嫌い?」
「私はぐずぐずになりたくないの」
「濡れたくない?」
「音楽は偉大だわ。けれど、このままではふやけてしまう」
「飽きたの?」
「音の海に沈むと呼吸が出来なくなるのよ。聴覚と触覚さえあれば他は要らないもの」

僕は腹を撫でる。当たり前だが、穴は空いていない。しかし、あの音に刺される感覚は確かに残っている。
ひたりと、彼女の手が僕の手の甲に重ねられた。

「何事も、多量摂取は毒よ」
「そうだね」
「貴方と居るのは好き」
「―――」
「貴方も毒かしら」
「さぁ…どう、かな」

ぞろりぞろりと誰かの手が僕の心臓を愛撫する。彼女の手は僕の手の甲に置かれたままなのに。
心臓に触れる手は、彼女のそれに思えてならない。

「晴れたら出掛けましょう」
「いいね、何処に行こう」
「貴方となら何処へでも。其処が私の墓場となるわ」

ふ、と彼女の唇が弧を描く。ゆっくりと、彼女の首が動き、――漸く僕らは見つめ合う。

「どうかしら」
「…いいね、いこう」

手始めに化粧品を買いに行こう。彼女にこの紅色は似合い過ぎて恐ろしい。
いきましょう、と囁く唇を塞ぎながら、僕の心は裏腹に雨雲を呼ぶ。あぁ、晴れてくれるなよ。僕はまだこの部屋に居たいのだから。






企画提出:幸福
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