俺――永瀬蓮が秀才なら、兄貴――永瀬聖英は天才だった。
類まれなる才を持つのに気まぐれ。自由気ままに好き勝手をするろくでもない人間。しかしそれすら、人を惹きつける要因となっていた。
当然、ツケが回ってくるのは俺だ。兄貴のことを持て余した親は、標的を俺へと変え、過度に期待した。
嫌いだった。嫌いで嫌いで仕方がなかった。
この世でいちばん大好きなあの子の目が、兄貴を捉えるときだけ仄かに揺らぐとしったあのときから、ずっと。
「ただいまー……」
家に帰ると、玄関に置かれた靴がひとつ多かった。
来客だろうか。顔を合わさないで済むように、手洗いうがいを済ませて自室へ向かう。
「あっ、んぁっ、聖英く、」
階段を上りながら、聞こえてきた嬌声に息を呑む。
俺の隣の部屋、兄貴が誰かを連れ込んでいる――何度か見た光景がまた繰り返されているのだと辟易していたのも束の間、次に鼓膜を揺らした言葉に、俺は絶望した。
「庵、ちょっと緩めろ」
「でき、できないっ、んぅ、だめっ、そこだめっ」
激しい水音。
気持ち良さそうな声。
兄貴に組み敷かれているのは、愛しいあの子――庵だった。
「んぅ、それ、あっ、すき、聖英くん」
「ほんとにはじめてかよ、淫乱……ッ!」
「んぁあっ!」
開いたドアの隙間から、庵に覆いかぶさる兄貴の姿が見えた。
「いお、り」
小さく呟いた声は、音になったのかさえ覚えていない。
静かに涙が零れ、心臓は痛みに血を流し、足が竦む。
とろけたような庵の甘い声も、伸ばした手の先が兄貴だったことも、すべて地獄だった。
幾ら耳を塞いでも、幾ら瞳を閉じたとしても、脳裏に焼き付いた記憶が浮かび上がってジクジクと燃える。
地獄が俺を手放してくれない。
――好きな子の好きな人は、大嫌いで仕方がない俺の兄貴だ。
「蓮のもひとくちちょーだい」
「ん、どうぞ」
飲みかけの飲むヨーグルトを差し出した。
幼馴染の庵は、よく「一口ちょうだい」を要求してくる。俺が飲んでいるのを見ると、何だか美味しそうに見えるらしい。
「うめー。俺もこっち買えば良かった」
「買ったら買ったで庵は飽きると思うよ」
「蓮は俺より俺のことをよくわかってるね」
わかってるさ。ずっと、ずーっと、庵だけを見てきたんだから。
「庵はわかりやすいから」
「そ? 何考えてんのかわかんねーってよく言われるけど」
「そりゃ昨日今日会ったやつが庵のこと全部わかってたら俺の立場ねえよ」
「うん、俺も1番わかってくれてるのは蓮がいい」
わかっている。庵の言葉に他意なんてないってことくらい。それなのに単純な俺は喜んでしまうのだ。
蓮、と呼ばれるだけで、心臓がとくんと跳ねる。
抱き締めたら返ってくる腕に、たまらない気持ちになる。
あいつと同じ銘柄を吸う庵のことを、滅茶苦茶にしたくなる。
その唇を奪ってやりたいと、劣情を縛り付けて奥へ奥へと閉じ込めている。
庵が好きだ。あんな光景を見たというのに、もう何年もずっと、頭がおかしくなるほど庵が好きだ。
なあ庵、俺は知っている。
まだ中学生のころのお前が兄貴とセックスしてたこと、俺は知っている。
「蓮? なした?」
下から覗きこむ庵を、ぐちゃぐちゃにしたくてたまらない。
俺の静かでどす黒い想いは肚の中で青い炎となり、ずっと低温で燃え続けている。
「……ううん、何でもない」
地獄に落ちればいい。兄貴も、庵も。地獄の業火に灼かれながら、それでも俺に手を伸ばしてくれるなら、それだけで幸せなんだ。
みんな地獄に落ちればいい