さよなら生物室 放課後の生物室には、いつも一人と一匹がいる。今日もやっぱり、一人の教師と一匹の犬がいた。 「……先生、学校で犬は飼うもんじゃないよ」 こっちに背を向けてしゃがんでいる生物担当教師に、声をかける。 「おー、岸田。お前タイミングがいいなあ。今こいつに芸を教えてるとこなんだ」 あたしの話、聞いてた? 「ほらタマコ、お手」 嬉しそうな声色で手を差し出す先生に、柴犬に似た茶色い雑種のタマコは手で、性格には前足の片方で、ゆっくりと『お手』をした。 「ほら、どうだ岸田! いい子だぞー、タマコ」 いや、どうだと言われても。 よしよしよし、と先生はタマコを撫でまくる。人なつっこいタマコは先生に撫でられるまま、気持ちよさそうに目を閉じている。 「先生、やっぱり『タマコ』って名前やめようよ」 「んー? なんでだ? いいじゃないか、『タマコ』」 「……あたしと同じ名前、っていうのが嫌」 「タマコと一緒なのが嫌なのか?」 「いや、そうじゃなくて」 先生がタマコの名前を呼ぶ度、あたしの寿命は縮まってるんだよ。 あたしの気持ちなんて何も知らずに、目の前の男は相変わらずタマコを撫でている。こっちを振り向くこともしない。 「先生」 「んー?」 「あたし、彼氏できたよ」 「おお、青い春だなあ」 タマコはまだ目を閉じてる。お願いタマコ、目を開けないで。お願い珠子、自分の気持ちに気付かないで。 「理系クラスの藤田君だよ。先生知ってる?」 「おー、物理の中井先生から話は聞いたことあるなあ」 「サッカー部なんだって」 「へえー。いいなあ、若いってのは」 「先生はもうおじさんだもんね」 「失礼だなあ、岸田。本当のことだけど」 「本当のことなんじゃん。今どきの高校生は、タマコみたいに相手してくれないでしょ」 「あはは、そうかもなあ」 今、先生は眉を少しハの字にして優しく笑っているんだろうな。 先生がこっちを振り向かなくたって、雰囲気で表情が分かってしまう自分が悲しかった。 「じゃー先生、あたし帰るね。藤田君待ってるみたいだし」 「おお、仲良くなー」 「へいへい。たまこ、ばいばーい」 生物室を出る間際、振り返って手を振った。タマコは未だに、先生に撫でられているままだった。 岸田が生物室を出て少し経ってから、タマコは目を開けた。目を開けたタマコはこちらに向かって、撫でるのはもう終わりかと問いかけているように見えた。 「恋愛ってのは難しいもんだなあ。なあ、タマコ」 そして再び、タマコの頭を撫でてやる。 「ごめんね、藤田君。お待たせ」 「全然いーよ。なんか用事あった?」 「んー、ちょっと。一皮剥けてきた感じ?」 「なんだそれ」 藤田君はふっ、と笑った。優しい笑い方は、あたしの好きだった人と少しだけ似ていた。 |