「くずは! どうして急に!」 「……急に、じゃないの」 「そんな……!」 彼女の哀しみを含んだ黒い瞳を見て、体が奇妙な反応をした。 あの切ない瞳を見たことがある覚えはないのに、僕の体はあの瞳を知っているのだ。どこかで見たことがあると、体は言っているのだ。それとも、これがデジャヴ? 不思議な感覚に動揺して言葉が出ない僕を、彼女は自分の態度に驚愕して言葉が出ないのだと解釈したらしい。 「急に、なんかじゃないの」 彼女はもう一度、その言葉を噛み締めるようにゆっくりと言った。 「今まで、ありがとう。それじゃあ」 「くずはっ!」 最後まで名前を呼ぶことしか出来ない僕に、ほんの少しの優しくて哀しい微笑みを残して、彼女はバタンという扉が閉まる音と共に、玄関の外へ出て行ってしまった。 きっともう、あの黒い玄関の扉が彼女の手によって開けられる日は二度と来ないのだろう。僕は直感でそう感じた。
彼女が出て行ってしまった現実を受け止められないのと同時に、まだあの感覚が体に残っていた。 取るものも手につかず、僕の脳みそは上手く動いてくれない。それで結局、僕はどうすればいいんだ? 訳も分からずに、ぐちゃぐちゃの迷路に放り出されたみたいだ、と思った。迷路のゴールが、果たしてどこにあるのか全く分からない。北へ行けばいいのか、南へ行けばいいのか。この迷路はどのくらいの大きさなのか。 意味もなく時計を見る。無機質なデジタルの文字盤が、「1324」と表していた。 そうだ、僕はくずはの作った手料理を昼食として食べて、一息ついていたのだ。 今日の昼食は、いつもより少し手が掛かっていて、少しばかり豪華だった。僕の好きなたらこスパゲッティにクリームが足され、くずは特製のドレッシングがかかった生野菜サラダに、じゃが芋や人参やらを大きめに切ったものが入ったコンソメスープ。 普段の昼食にしては、今日はやけに手が込んでるね。 僕がそう言うと、くずはは「そう?」となんでもないように笑った。 それで結局、僕はどうすればいいんだ? 僕は未だに迷路の中の状況が分からず、呆然と立ち尽くしている。我ながら、少し情けない。 僕はいつ、彼女に別れたくなる要因を作ってしまったんだろう。 ふと、厚いアルバムが目に入って手に取ってみる。黒い布張りが表紙の分厚いアルバムは、付き合い始めた頃のデート中にくずはが買ったものだ。これからはこのアルバムいっぱいに、思い出を詰めるのよ、と彼女は嬉しそうに楽しそうに笑って言った。 アルバムには幸せそうに笑う一組のカップルの写真がたくさん入っていた。彼女はこまめに写真をとり、こまめにこうしてアルバムに入れて整理していた。ベタに遊園地に行ったりもしたし、ちょっと高級なレストランに行ったりもした。学生の頃にはとてもじゃないけど行けなかった海外旅行にも、時たま行った。思い出に浸っていると、ふとあのデジャヴのような感覚を思い出した。もしかして僕は、あの彼女の黒い瞳を、見たことがあるんじゃないか? デジャヴなんかじゃなく、本当に見たのでは? ペラペラとアルバムの写真を見直していく。違う、違う。この写真じゃない。ここでのデートじゃない。あの瞳は遊園地でもなく、レストランでもなく――……そこで手が止まった。 アルバムの中の写真には、イルカのイラストがプリントされたお土産袋を、大事そうに抱えたくずはが写っていた。そう、水族館の帰り道だ。 二人で港沿いの遊歩道を歩いている時、彼女がふと足を止めた。その時確か、何か将来の大事そうな話しをしていたのだ。止まった彼女を振り向いた時、あの哀しみを含んだ黒い瞳を見たのだ。 お土産袋を抱えた写真は、一年と少し前のものだった。
『急に、なんかじゃないの』
彼女の声が、聞こえた気がした。 水族館の帰り道の時点で彼女はきっともう、今日のような出来事がいつか来ると、分かっていたんだ。
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