「白雪よ、リンスが切れてしまったのだが」

湯上りの小太郎さんがバスタオルで髪を拭きながら私に言った。洗い物をしていた私は手と水を止める。

「またですか。早くないですか?猛暑なんだしその長髪切ってきたらどうですか。それか外すとか」

「ヅラじゃない地毛だ」

「あ、ハイ知ってますさすがに」

私たちの背後でエリザベスがお風呂セットを持ってぺったぺったと洗面所に向かっていた。あ、ちょっと待ってエリー。今リンス無い…まあ、彼(彼女?)は毛が睫毛くらいしかないからいい…のかな?

小太郎さんは、エリザベスが居間を出て行ったのを横目で確認し二歩私に近づいた。シャンプーのいい匂いがする。

壁の古時計は夜八時をさす。ごうん、と音が鳴って、小太郎さんが「白雪、」声を出した。

「少し、夜風に当たらないか」






濡れた手を拭いて、目元だけ薄く化粧をして、家の鍵と財布だけ持って、風呂場のエリーに「ちょっと出掛けてくるね」と声をかけて、出てきた。

まだ乾ききらない小太郎さんの髪が風にさらさらなびく。

リンスとお酒を買いに、私たちはスーパーまで並んでのんびり歩いていた。

「虫の音、涼しいですね」

「そうだな」

「……」

「……」

どちらからともなく、そっと、手を繋いだ。

話すことがないわけじゃない。りりと鳴く虫たちの音と静かな街がいとおしいって、二人同時に思っただけなんだ。だから黙って歩いてた。



小太郎さんは今でも攘夷思想を持っているし攘夷活動をしている。それでも今はこの静かな晩夏の夜を壊そうなんて思っていない、と思う。だってここにはエリーがいて万事屋さんがいて長谷川さんがいて幾松さんがいて私がいて、……沢山の人がいるのだから。彼がそのことを一番知っているのだから。

まつりごとや学問は私には分からない。攘夷のこともよく知らない。でも、小太郎さんの穏やかな顔が嬉しい。本当に嬉しい。…出会った頃は、もっと変な顔してた。余裕ない顔。

「俺の顔に何ぞついているのか」

「いえ。見とれてたんです」

「……」

顔を逸らされた。あ、どうしよう。顔がにやける。私の顔が。

「こたろーさん」

「……」

「こっち向いてー」

繋いだ手をブンブン振ってみた。が、小太郎さんは、いきなり、「しっ」と二人分の手を口元に持っていって人差し指を立てる。私の手にも彼の息が僅かにかかって、どきっとした。


……にゃあ。

  ………にゃあ。


「ねこ?」

ゆっくり下ろされた手。桂さんは道端に屈みこむ。私もその隣にしゃがむ。

電信柱の陰に、黒猫がいた。

「かっ…かわゆす!」

やばいかわいいやばい猫かわいい!柱に体を隠して、じっとこちらを睨むように窺っているのがいとうつくし!いみじふをかし!ああ、記念写真とりたい。

……しかし私より更に嬉しそうな顔がしていたのが小太郎さん。頬を赤らめながら猫に手を差し伸べ、おいでおいで(桂裏声)と声を掛けている。彼の動物好きを目の当たりにしたのは初めてじゃないけれど、それでも何度見ても、猫一匹にメロメロな長髪の侍が、かわいくて仕方ないのである。

猫はしばらく私たちのことを睨み上げたあと、するりとどこかへ去って行ってしまった。

「かわいかったなあ」

しゃがみこんだまま、二人でぼんやりしていた。私の右手と彼の左手は、まだ繋がれたままだ。

虫の音が涼しい。


乾きかけた小太郎さんの長い髪は、地面についてしまいそうだ。


壊しようのない、静かなうつくしい街。



小太郎さんと目が合う。



繋いでいた手がゆっくりと離れて、私の肩へと移動した。

顔が、更にゆっくりゆっくりと近づく。


小太郎さんしか見えない。口説き文句とかじゃなくて、実際に。



鼻先が一瞬触れて、












……にゃあ。



猫が遠慮がちに鳴いた。ハッとして二人とも電信柱のもとを見る。いつの間にか戻ってきていた猫が、ネズミを一匹くわえていた。

「えっ、あ、ははははははみみみ見られてましたねあはははは」

「い、いいいいかんな。子猫には刺激が強すぎる。ここから先は十八禁タイム、」

「何する気だったんですか」

肩に置かれた手をぺしっと払って立ち上がった。

「行かなきゃ。スーパー閉まっちゃいますよ」

「そう、だったな」

小太郎さんも立ち上がる。

立ってみたら猫は本当に小さかった。にゃあ。もうひと鳴きして、大きな私たちを見上げる。くわえられていたネズミがぽてっと地面に落ちて、よろめきながらそそくさと逃げていった。


「ばいばい。またね」




歩いて五分ほどのスーパーに行って帰ってくるはずだったのに、もう九時近い。エリザベス、もうお風呂上がったかな。


「白雪、」

「何ですか」

「結婚してくれ」

「いきなりすぎです」





気温は高いけれど、虫の音が涼しい夜である。


繋いだ手はあたたかく、世界はとてもうつくしい。





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