公園で、明けの明星を見つめていた。

 金星にも天人が住むのだろうか。金星人はお江戸にやってくるだろうか。あんな綺麗な星の生き物は、どんな美しい姿をしているだろうか。なんて思いながら。

 ほのほの明けてきてはいても、空は暗く空気は冷たい。くしゃみを一つした。向かいのベンチで寝ていたホームレスが寝返りを打った。

 私はベンチの上で、縮こまるように膝を抱えて座っていた。家出なんてするんじゃなかった。という後悔と、いやいや絶対帰るまい。という反発心を、両方抱えながら。今頃は手代が血眼になって探しているかもしれないけれど、まさか私がかぶき町になんぞいるとは思うまい。

 再び視線を空に戻した。細かすぎるグラデーションが茫洋と広がっている。果てが無さすぎて欠伸が出た。そういえば徹夜をしたのも初めてだ。

 今日は特別な日。

 気に入らないことばかり押し付けられるのはもう御免だ。

 ざーっと風に流れる公園の砂とか、丸めて捨てられた新聞紙とか、公衆トイレの方から時たま出る水音とか、遊具の落書きとか、そんなものたちが私のワイン色の夜明けを微笑ましくしていた。ロマンチックすぎないようにね、と明るく笑い飛ばしていた。

 私はゆっくり目を閉じた。水音と遠くの犬の吠え声、それから啼鳥なんかを聞きながら、金星人の姿を想像した。地球人とそう変わりなく、目鼻があって口があるのだろう。胴があって、四肢があるのだろう。肌や髪の毛は美しくて、地球人より丈夫なのだろう。きっと李下美人図の美人の何倍も美しくて、……なんて考えていたら、本格的に眠くなった。膝に顔をうずめる。もう考えがまとまらないや、考えが、何も、。

 何でも良いような気分になっていたところ、ざっ、ざっ、とゆっくり地面を引きずりながら何かがこちらに向かってくる音がした。私は重たい目蓋を上げて顔を上げた。人だ。

 向かいのベンチで寝ていたホームレスが、私の前に立っていた。

「お嬢ちゃん、こんなとこで何してんの」

 格好は貧相だけれど、立派な体格とサングラスのおっさんだった。私の想像の中の金星人には似ても似つかない。あれ、と思って空を見遣ったら、もう明けの明星は見えなくなっていた。

 全くダルそうな起き立ての声で呼びかけたおっさんは、頭をぽりぽりと掻きながら、サングラスの奥の切れ長の目で、私を不審そうに見る。

「こんなとこでこんな時間に女の子一人じゃ危ねーよ」

 そう言って、ふああああ、と、まるでだらしない大きな欠伸をする。

「………」

 私は何を言おうか迷った。その前に、この人を警戒すべきかどうか迷った。

 テレビで見るようなホームレスは、怖い。色んな意味で怖い。近づくのが怖い。しかしこのおっさんはどうだろう。怖いというより、まるでダメな感じしかしない。

 黙っておっさんを見上げていた。おっさんは私を見下ろしている。そして、「家出でもしたのか」と、実に適当な調子で、しかし実に的確に現状を当ててみせた。私は躊躇しながらゆっくり頷いた。

 おっさんは私から目を逸らしてしゃがみこみ、私の足元の、丸まって団子みたいになった大江戸新聞を拾い上げた。そして伸ばした。

「……何で家出したかは聞かねーが、」

 おっさんは新聞を広げてシワを伸ばしながら話す。

「さっさと帰りな、……とも言わねーけど」

 そして顔の位置より高く掲げ、見上げる。

「ま、何か喋りたいことがあればオジサンに喋ってみ」

 あーあ。またあのバカ皇子が地球に来てんのか。まいったね、と新聞記事の感想を漏らして、新聞紙を四つに畳んで、おっさんは私の隣に座った。ざっと五十センチは空けて座っているはずなのに、ちょっとお酒臭い。

「…ありませんよ」

 低くかすれた声が出た。随分と久しぶりに発話したような気がした。

「じゃあいい」

 彼はうつむいて、右膝に置いた新聞紙の文字をじっと見つめていた。私は空を見上げて、特別な夜が終わっていくのを眺めていた。


 公園の時計が朝五時半をさした。


「アンタ、これからどーすんの」

 ふいにおっさんが言った。私はおっさんを見た。おっさんは私の方を見ていなかった。

「……これ、から……」

 ほとんど勢いで家を出てきた私は、これからどうするかをあまり考えていなかった。ただ漠然と、ふらふら生活するんだろうとか、どうせ連れて帰らされるのだろうとか、ぼんやりとイメージしていただけで。

「どうにかなります」

「どうにかなんてなるもんじゃねーよ」

 しみったれた顔で言いながら、おっさんは私に、ライターを持っていないか訊ねた。私が首を横に振ると、ポケットから出しかけたタバコをしまった。

「自分でどうにかしなきゃ、どうにもなんねーよ」

「………そ、ですね」

 この、まるでダメそうなおっさんに、真っ当で妥当なお説教をされているのが、不思議な感じだった。そしてそのお説教に、素直に納得している自分に驚いた。家出娘の風上にも置けない。

 ならこれから本当にどうしようか。と私は考えはじめた。そうしたら、私の持ち出したお金なんて微々たるものでこれからの生活を保障する額でもないし、住所不定の家出娘なんぞに奉公させてくれる家もあるまいし、本当に自分がバカなことをしたのだということだけがわかった。私は溜息をついた。

「ま、元気出せや」

 おっさんは、どこに忍ばせていたのかカップ酒を出して、自分も少し飲んでから、私に勧めた。「まだそんな歳じゃないので」と断ったら、おっさんはぐいっと一気に酒をあおった。むわっとアルコールのにおいが広がった。おっさんの顔が、朝っぱらから赤くなった。


 おっさんは長谷川と名乗った。私は白雪と名乗った。

 長谷川さんは自分のことを私に話した。酔っ払いだから話があっちこっちいってしまって、結局、職を転々としていることしかわからなかった。そうして最後に、自分を「まるでダメな男」と評した。

「ダメじゃないですよ」

「いやあ、ダメだって。白雪ちゃん、こんな風になっちゃいけねえ。こういう野郎とくっついてもいけねえ。白雪ちゃんは、まだ堕落にゃ程遠いお嬢さんだ。オジサンが保障する。だから、」

 長谷川さんが空を見上げた。もう朝でしかない。ワインなんかじゃなくて、カップ酒の色の朝だ。中々しみったれた朝である。

「だから、……」

 酔って饒舌になっていた筈の長谷川さんが、急に黙り込んだ。だから私は口を挟んだ。

「家出娘にそういうお説教する人が、ダメな筈ないんです」

 はっきりと発音したつもりの私の声は、断定的で健全な朝の空を泳ぐ鳥達の声に負けた。それでもおっさんは涙を流した。良い品らしいサングラスの下から、つつ、とカップ酒でもワインでもない液体が流れて、彼はそれを拭わずに黙って唇を震わせた。私まで喉の奥が熱くなった。

 何かをごまかしたくて、私は金星人の話をした。苦手なのだ、こういうシリアスすぎる空気が。こんな風にまるでダメなお子様の話を、長谷川さんは何故だか真剣に聞いてくれた。けれどもとうとう私たちは二人して泣いた。しみったれた朝だった。




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