その日のプールの時間、神楽は見学していた。隅っこのベンチに座り、クラスメートの飛ばす水しぶきを眩しそうに見つめていた。そして腕をねんざしていた俺も見学だった。運動場の隅っこにいて、フェンス越しに神楽の横姿を見つけた俺は、彼女に声をかけてみた。
一昨年あたりから仕組みが変わったらしく、プールの時間は男子と女子と交代制になった。たとえばうちのクラスなら月曜5限は女子がプールで男子は野球。木曜3限は男子がプールで女子はサッカー。そんな具合で、要するにプールの時間が別々になってしまったわけだ。
俺がその時好きなのは近所で一人暮らししている従姉だったから、好きな女の子の水着姿がどうのこうのという懸念はなかったけれど、やっぱり、ものさびしい感じがなくもない。一つ青春が減ったような、そんな感じが。
「神楽あ、お前も見学?」
他の女子が水に浸かってきゃいきゃい騒ぐ中、一人だけ体操着の神楽は、無言でこちらに顔を向ける。そしてすっくと立ち上がり、
「何覗いてるアルか変態」
俺を追い払うようにずがんずがんとフェンスに蹴りを入れてきた。強烈なキックに、フェンスがぐにゃりと変形する。
「人聞き悪りーな。まだ何も覗けてねえよ」
「覗く気満々じゃねーかヨ失せろ女の敵」
「冗談だって」
もう一発入った神楽の蹴りにより、フェンスがついに大破した。穴あきになったフェンスの向こう側で、神楽はしゃがみ込み、顔の高さを俺に合わせる。
「お前、めっちゃ元気じゃん。なんで見学してんの」
俺はフェンスの穴の輪郭をまじまじと見つめて言う。神楽はぶすっとして答えた。
「水着とタオル忘れただけネ。私も皆と一緒に騒ぎたいヨ」
「まじでか」
さっきあまりにもせつない顔でプールの方を見てたから、体の具合でも悪いのかと思って声をかけたのに、何だかあほらしい。
「倫吾は、まだ腕治らないアルか」
「あー、うん。良くはなってきてるがね」
肩から吊った包帯でぐるぐる巻きの左腕。痛みは減ってきたが、それでも野球には到底参加できない。出来てせいぜい球拾い程度だろう。
「………」
神楽の視線がふいに下を向いた。適度に長いまつ毛の影が、彼女の目の下に伸びた。
そうしてぽそっと、
「部活、試合近いのにナ」
少しさびしそうに言う。
「え、……」
そのとき急に蝉の声を意識した。首やこめかみのあたりにじんわりと汗が浮いているのに気付いた。
彼女の言う通り、部活の引退試合が今月中旬にある。包帯が取れるのはぎりぎりになりそうで、当然今は練習に参加もできず遅れを取っている。だから補欠である。怪我した以上仕方のないことだから、悔しいけれどもそこはもういい。
それより、神楽って知ってたっけ。俺の部活の試合日程とかそういうの。
神楽の右手がフェンスをきゅっと掴む。そして、瓶底眼鏡の奥から、青く丸い目が俺の目を見る。慎重に、俺の表情をはかるみたいに。
「倫吾、」
「なに?」
神楽の白い頬や鼻が日光に焼けて赤い。俺は何だか動揺していた。従姉みたいな大人っぽさとか色気とか、こいつ全然ないのに。いとも簡単にフェンスを大破しちゃうような奴なのに。息のリズムが乱れる。
みーいみいみいみい、じじじじ……
「………なんでもないアル」
急に冷めた声で神楽が言い、すっくと立ち上がった。俺に背を向け、ベンチの方へ一歩、二歩。
「え、ちょ、何だよ!」
ハーパンから伸びる細い脚を見上げ叫ぶと、彼女は立ち止まり振り返り、
「…いつまでも覗いてんじゃねーヨくそ馬鹿!」
ぴしゃりと撥ねた。その声に反応した他の女子たちが俺を発見して、「やだ森野キモーい」とか「痴漢」とか「アッ今コッチ見タナ。慰謝料200万払エヨ」とか言いだしたから、たまったものじゃない。むかつくアイツむかつく。当の神楽はベンチに座ってやがる。こちらから表情は見えない。わけがわからない。
「ちげーよ!今のは神楽が勝手に!ていうかキャサリン上半身しまえし!」
必死に弁解しながら、フェンス越しに、拗ねたみたいにそっぽを向いて、縮こまるみたいに足の指を曲げる神楽を見ていた。ある瞬間に神楽は上を見る。俺も連られて上を見る。夏らしく、シンバルでも打ったような晴れ空が広がっていて、思わず目を細めた。フェンスの向こうで宙を舞う水しぶきは、確かに眩しい。