屯所を訪れた。退はいない。潜入捜査でいつ帰るかわからないのだそうだ。私は閉まったままの退の部屋の障子戸を開けて、夕風を通した。
主のいないこの部屋はいつも以上に地味で寂しい。もっと寂しいのは私だ。それでも寂しがっているだけじゃどうにもならないから、私は今日ここに、風鈴を置きにきたのだ。
ついでにエロ本でも隠し持ってないかチェックしようかと思ったけれど、あなたは今命懸けの任務にいるのだから、やめておこう。私は押入れの襖に掛けた手を離した。
ずっと閉めきっていたせいで蒸し暑いこの部屋に、さらっとした感触の、生温い空気が流れてきて、溶けた。外では割と淑やかに蝉が鳴いている。
私は風呂敷をほどいてジャスタウェイほどの大きさの木箱を取り出し、中から風鈴を取り出した。りん、しゃらん。ビイドロと金属のぶつかる涼しい音が、地味で殺風景な部屋に響いた。
風鈴に取り付けられた短冊は真っ白だ。何も書かれていないし描かれていない。何でも好きに飾りつけよ、という誂えなのだろう。
私はその場で退のペンを借り、指でぐるぐると回しながら何を書こうか思案した。大好き。とか、さがるLOVE。とか、ミントン全国大会優勝。とか、色々な案をあぶくのように浮かべては消して、結局ベタに「涼」とだけ書いた。黒いボールペンの「涼」はひどく貧相だったから、ぐりぐりと太字にしてみた。とことんセンスのない風鈴になった。
うーん、さすがにこれは飾っちゃみっともないかもしれない。ていうかまずコレを退に見られるのが何だか恥ずかしい。何も書かない方が却って良かったかも。・・・・と気付いても覆水は盆に返らない。どうしようかなコレ、無かったことにしようかなコレ・・・・。
風鈴を持ち上げて見た。また涼しい音が鳴った。私の好きな音だ。ぎらぎらと眩しすぎてクラクラと眠たくなる夏、小振りで可愛らしいこのきらめきが、スッと優しく目を覚まさせてくれる。
と、その時。
「あれ、白雪?」
りん、きん、りりん。いきなり聞こえた愛しい人の声に私の手が震えた。いつの間にか、退が障子戸の前に立っていた。
「何してるの、俺の部屋で」
訝る声ではなくて、間の抜けた、ごくごく普通の調子で彼は言った。そういう退が大好きだ。でもその時あまりにもびっくりしていた私は、日本語をすっかり忘れてしまっていた。だって、暫く会えないのだと思っていたから。
「それ、風り・・・・わっ」
日本語を忘れた私は、勢いよく、退に抱きついていた。手に持ったままの風鈴が、彼の背中でしゃんと鳴った。
「白雪、一体どうしたの」
彼は私を抱き止め、頭を撫でながら言う。
「・・・・さがる」
「ん?」
「・・・・さがる、お帰りなさい」
私はやっとそれだけ言った。生温い風が吹いて、退の背後と、もう一ヶ所、私の背中の後ろでも涼しい音が鳴った。
「ただいま」
退が言って、私の背中から腕を離した。やや遅れて私もそうする。
向かい合った私たちは、互いの胸の前に風鈴を出して、「これ、ぷれぜんと」と渡し合っていた。
白雪も俺と同じこと考えてたんだ、と退は笑って、私の書いた下手くそな「涼」の字に唇をつけた。全く、柄にもなくキザなことする。それでも私の顔は赤くなっていたらしくて、そのことでまた笑われた。
生温い空気と風鈴の音が、私たちを何より優しい気持ちにさせた。