「ねえ山崎さん」
「はい?」
ぎゅっと袖を掴まれた。振り向いたら、必死な目の白雪様。少し涙ぐんでいるようにも見える。目の中で光が揺れたように感じた。
「やっぱり、帰りたくない」
十一月も暮れの夜中。風は冷たい。澄んだ月に照らされてぼうっと青白い彼女の顔が真っ直ぐに俺を見上げていて、かすれるような声で甘えられて、きゅうと胸が狭くなった。
見回りのさなかに見つけた白雪という娘を、家の前まで送ってきた。松平のとっつぁんの知り合い、幕府の高官の令嬢らしい彼女は、家出をしていたのだという。どこかの天人との政略結婚が決まっていたという彼女に同情もしたけれど、だからこそ無事に保護しないといけない。
「駄目ですよ、帰らないと。みんな心配してます」
「帰りたくないの」
子供みたいに首を横に振って、かたくなに拒む。立派な屋敷だけれど、門前の見張り番は不在か、俺達の会話に気づく人は誰もいない。お嬢様を発見しました、保護しました、と先ほど副長に打ったメールはちゃんと届いているだろうか。隊服の上着の内ポケットの携帯電話は一向に震える気配がない。
トンと澄んだ夜、ここには人が二人しかない。
「白雪様」
子供をあやすように言うと、彼女は、俺の腕を離した。
そして目を逸らす。
「…じゃあ、もう少しだけ寄り道をしてから帰る」
「寄り道って、もうお屋敷の前じゃないですか」
俺の言葉を無視して、彼女はくるりと背を向け、すたすたと歩き出した。
「ちょっ、待って下さいよ」
俺は慌てて追いかける。すぐに追いついて令嬢の腕を掴んだら、彼女はぴたりと足を止めて俺を見上げた。ああ腕を掴むのはまずかったのかなと思って腕を離し、謝ったら、
「何でよ」
彼女は小さく笑った。
「少しだけ、お話をしたいの」
「へっ?俺とですか」
「もちろん。他に誰もいないでしょう」
遠くに見えるターミナルがうすぼんやりと光っている他、江戸の街は真っ暗だ。ただ澄んだ月と僅かな星の光を頼りにして、俺たちは互いの顔を確認している。他に誰もいない、というお嬢様の言葉に妙な心地がした。納得なのか、共感なのか、動揺なのか、見当がつかない。
行動を迷っていたら、逆に腕を掴まれ、彼女に引っ張られるようにして屋敷を離れていった。
「山崎さん」
「はい」
「敬語、やめてよ」
「はい?」
真っ直ぐ前を見て俺を振り向かず歩きながら、彼女は突然そんなことを言った。
「やめて。さもないと私、お通ちゃん語で喋るからねットサーフィン」
「わ、わかりました」
「わかってないじゃないル川の氾濫によってもたらされるエジプトの富」
「………わかった」
「うん。その方が話しやすいわ」
どう見ても年下の娘とこんな会話を交わしているのが少し奇妙な感じはしたけれど、俺の腕を掴む腕の力の加減と、夜闇の中の彼女の満足げな横顔が何だか可愛らしく思えて、俺もつられて微笑した。
俺達はいつの間にか、すみだ川の近くまで来ていた。
「あーあ、政略結婚かあ」
青白い月光にきらめく川面を見つめ、令嬢は呟いた。
「典型的だけれど、こんな時、王子様が私を掻っ攫ってくれたら素敵よね」
「本当に典型的だね」
互いに苦笑した。いや、彼女は苦笑というには少し明るく笑っていた。にこやかな、静かな、育ちの良い微笑み。
その笑顔を自分の鼻の近くに感じて、ひとつ大きく心臓が鳴る。
「……山崎さん」
「うん?」
「要するにね、私、恋をしたいの」
「………」
「言ってること、わかる?」
わかる、わかるよ。わからん筈がない。けれども、何と返したら良いのかがわからない。
俺の腕を握る手の力が、急にきゅっと強くなる。
「山崎さん」
白雪様の、いや白雪の語気も強くなった。俺は深呼吸して、
「……俺みたいな地味なのより、もっといい人がいるよ」
と言った。彼女の目にうっすらと涙が浮かんだのが、ちょうどすぐそこの川面と同じ光り方で綺麗だった。美しかった。彼女は頭を振って、
「地味なのがいいの」
と今度は弱弱しく呟いた。
さっき出会ったばかりだというのにこの娘は。とも思ったけれど、続けて、山崎さんがいいのと蚊の泣くような声で言われて、俺はその娘をぎゅうと抱きしめていた。
俺でいいんですかと言ったら、腕の中から、あなたじゃないと嫌なのートルダムの鐘、と聞こえた。俺達はまた少し笑った。