ざぷりざぷりと、静かな波が船ごと私たちの体を揺らしている。日中は暖かいけれど、夜はやっぱりまだ少し涼しい。
星空に見下ろされる船。の、中で、奴に見下ろされる私。
「おめェ、今までどこにいた」
鋭い目と低い声に圧し潰されそうになる。胸がだ。怖いのではなくて、この隻眼の男に申し訳がないとか、かわいそうだとか、そんな感情で私の心臓がぎゅっと収縮するように感じた。何故だかはわからないけれど、時々そうなるのだ。
「…今まで、……」
豚箱にいましたー、なんて茶化し方をしてもこの人は笑わないだろう、私に呆れるかもしれない。本当は、幕府の情報収集のために動きまわってたのだけれど。
「どこにもいなかったよ」
私は真面目そうな口振りで言って、真面目そうに微笑んだ。晋助は微笑まない。何か考えるように、ゆっくり、ゆっくりと目を空の方へ向けた。
「……あの世にでもいて、黄泉帰って来たか」
「そんなとこかな」
あなたが世界を壊した後、どこに住んだら良いか下見をしてきたの。
もちろん嘘だ。冗談だ。彼にも彼以外にも嘘をつくことには慣れているけれど、それでも晋助につく嘘はどきどきする。目を真っ直ぐ彼に向けられているか心配だ。
「どうだった、向こうは」
「うーん、まあ快適。テロリストは地獄に落ちるのかと思ってたけど、きっと勝てば官軍なのよね、けっこう待遇が良かった。それとも私、罪業を上回る善行をいつの間にかしてたのかな」
「……さァな」
私はさっきから晋助を見ているけれど、彼は私と目を合わせてくれない。ずっと星空を見上げている。何かの星座でも探しているのだろうか。
と、思ったら、晋助が上を向いたまま静かに目蓋を下ろした。そしてそれ以上に静かに喋った。
「おめェは立派な牙を持ってる」
「晋助ほどじゃない」
「それに、間者としても一流だ」
「いきなり誉めたって何も出さないよ」
風は穏やかで、船の揺れが心地よい。晋助の口角が僅かに上がった。あ、笑ったのかな。私は覗き込むけれど、彼は更に顔を上に向けたから、表情がよくわからなくなってしまった。
「………なのに、」
彼の顎から耳、首へと続く輪郭を見ていた。ちりちりと細かい星明かり、ぼんやりとした船の灯かりに照らされて、この男はまるでこの世の人でないみたいに、幻想的に映し出されている。この男がいずれ、この世という世を壊す人。
「おめェは、」
晋助の息が僅かに震えた。面白くない嘘だったかな、と、私の表情が止まった。この男を悲しませたかもしれない。この男を寂しがらせたかもしれない。心臓を絞られた。
本当はね、幕府の情報収集のために動きまわっていたの。こう見えて元お庭番なのよ、こういう動きならお手の物。バカな役人に取り入って機密を得たの。だからあなたにすぐ報告しようと思って。
すぐ報告しようと思って、
「おめェは、何故生きて帰って来なかった」
晋助が、やっと目を合わせてくれた。私を見下ろした。
晋助、私の嘘を本気にしちゃっている。オバケとか信じるのか、この人。ていうかだからさ、黄泉帰ったんだってば。生きてるんだってば。もの分かり悪いヤツめ。なーんて、
「うっそ嘘。本当は幕府のね、」
ほら生身の人間だよ、と言わんばかりに手をぐーぱーしながら言いかけて、止まった。
「ばく、ふ、の、」
すぐ報告しようと思っていたのに、こんなに遅れちゃったのには訳がある。ここに来る途中で、真撰組の連中に出くわしちゃったのだ。厄介なことに向こうさんが大人数でいたから、撒いてくるのに相当時間がかかった。三日三晩かかった。そうなのよ、そう。それで左腕と背中に傷まで負って、何時間もかけてやっと撒いたと思ったら、
思ったら、
『森野白雪、覚悟』
呼ばれるや否や、私は斬られていた。
朦朧とする意識の中で、ああコイツら本当にバカ。殺す前に拷問でもして、晋助の情報でも吐かせた方が良かったんじゃないの。なんて思ったりもした。ずいぶん冷静だった。死ぬ前にそんなことしか考えてない自分に苦笑した。
私の嘘は本当だった。私の本当は嘘だった。
「やっだなあ、思い出しちゃった。バカみたい。なら私って今、オバケなのかな。オバケって本当にいたんだ、我ながら怖いなあ」
晋助が笑うわけないと思っていても、もう茶化さずにはいられなかった。耐えられなかった。
晋助は泣いていなかった。怒ってもいなかった。もちろん笑わなかった。
「正直に答えろ。あの世の住み心地は良さそうか」
「…うん。まだ行ったことないけど、きっと」
「そっちは、俺が壊しにいかなくても良さそうか」
「多分ね」
勝てば官軍だもの。晋助には、うつし世をどうにか変えて貰わないといけない。
「おっと危ない忘れそうになった。さっきの、役人の話なんだけど」
「もういい」
逆・冥土の土産にでもと思って言いかけたら、彼に遮られた。
「なら、もう、いいんだ」
やっぱり悲しませたのかな、寂しがらせたのかな。なんて奢りかもしれない。でも私の心臓は、オバケになってもなお、彼のその悲しんでいるのか疲れているのかわからない姿を見て平然といられない。
この人は絶対にそういう類の顔をしないから分かりにくいが、牙があるだの、黒い獣だの、云っても高杉晋助は人間にすぎないのだ。そして森野白雪も、嘘と本当もまともに分からないような、分別のないバカ女にすぎないのだ。
晋助は私に背を向け、去っていってしまった。何も言わずに。だから私も何も言えなかった。