かっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっ、Z組の教室から規則的な音が聞こえてきた。ドアの小窓越しに覗いてみれば、教室には女子生徒が一人、真剣な表情をして、太鼓のバチで机を叩いている。その真正面には淡い青のメトロノーム。

 俺はその女子生徒を知っていた。同じZ組で吹奏楽部所属の白雪だ。セーラーの間服の袖を捲って、額にうっすら汗を浮かべて、それでも机叩きをやめることなく続けている。よく知らないが、基礎練習のようなものなのだろう。

 ふと自分が放課後の教室に立ち寄った目的を思い出した。四時から風紀委員会がすぐ下の二年生の教室であるのだけれど、その資料のプリントを教室の机の中に忘れてきたのだ。俺は静かにドアを開けて、無言で教室に入った。窓も開けず密閉されていたその部屋は、思っていたよりも蒸し暑かった。

 白雪は作業をやめない。俺に気付いていないのかもしれない。そう思った瞬間、ふっと彼女をからかいたくなった。


 俺は後方からそろりと白雪に近づく。小さな背中のわきで相変わらず両の腕が規則的に机を鳴らしていた。かっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっ、教室に入る前から今までずっとやまない音。自分の腕が白雪の肩に届くまであと二歩、というところで、突然、地球の重力がおかしくなったような、ぐらりと目眩のする感じが俺の頭に来た。咄嗟に自分のすぐ横にあった机に手をおいて身体のバランスを取る。



かっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっ

 白雪は俺に気づいていなくて、おそらくは自分の作るリズムだかテンポだか、そんなものばかりを見ている。もしくは机を叩きながら、頭じゃ全く関係ねェこと考えてたりしてな。何にせよその背中はノーガード。背中だけではない、テンポの外側に対して、今は彼女の全身が無防備だ。


 あああ、俺が何か起こしたら、この女はどういう顔をするんだろうか。



 この教室は蒸し暑い。だからだろう、普段クラスで何とも思わないような女子に対して、驚くほど執着しているような気がする。

 ふらつきから解放された俺は、腕を伸ばして一歩前進した。そしてまた一歩。

 あと三センチ、



かっかっかっかっかっかっかっかっ、かっ、かっ、・・・・・。



 メトロノームの動きがおもむろに止まり、白雪の音もそれに合わせて消えた。彼女が手を下ろす。俺も下ろす。

 彼女は俺を振り返る。

「おきた君?」

 意外そうに眉を上げて、少しだけ驚いたような調子で白雪が俺の名前を呼んだ。俺は降ろした手で拳を作る。汗ばんでいた。

「チッ、つまんねえや」

「え?」

「鈍くさくて全然気付かねーから、驚かしてやろうかと思ったのに」

「・・・・ばか」

 白雪の目を見ないで白雪の背後の黒板を見て喋ったらいつもの調子の声が出た。けれども目が合うと、こいつの目尻、こんなに姉上と似ていただろうか。

「・・・何、私の顔に何かついてるの」

 ははは、と何かを茶化すように白雪が笑う。

「色々ついてんぜ、余計なものが」

「はっ?え?嘘」

 適当なことを言ったら本気にし出して、バチを机に置き、足元に置かれた学生鞄を探って鏡を真剣になって見ている。しゃがみ込んだまま一点を見る白雪は、小動物的で、でもやっぱりノーガードだった。


 この教室は蒸し暑い。


「別に何もついてないじゃん」

 振り返って俺を見上げて白雪が明るく声を張る。そしてクシャッと笑う。笑った目尻は姉上のそれとは似ても似つかなかった。

「おきた君てさ、相当変わってるよね」

 立ち上がった白雪がメトロノームのネジを回しながら言う。

「何がでィ」

「何て言うんだろ、全体的に」

「てめーほどじゃねえやノロクサ女」

 ネジを巻く手は小さい。爪も小さく短い。じり、じり、と音をたてるネジを不意に壊したくなった。けれども駄目だ、それじゃ駄目だ。

 もっと直接、






 メトロノームを机に置く細っこい手首を、気づいたら俺は掴んでいた。バチを取ろうとしていた白雪のもう一方の手の指先が少しぎこちなく曲がる。それから白雪は俺を振り返る。さっきより驚いた顔をしていて大変良い。



「何、どうしたの」

「さあ、知らねェ」

「あっ、あああ暑いし、窓でも開けようかなっ」


 白雪が窓際を向いて、俺の手を振り払おうと二歩三歩歩く。離さない。離すわけがない。

かっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっかっ、再びメトロノームが鳴り出した。さっきよりも若干テンポが速い。掌に伝わってくる白雪の脈も速い。



 時計を見たら四時ちょうどだ。委員会が始まる。

 それにしてもこの教室は蒸し暑い。





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