武士の背中は頼もしい。男の広い背中は美しい。好きな人の背中は温かい。そういうわけで、私は上記三つともに当て嵌まるその黒服の背中に、ドンとアタックしてみた。(世間ではタックルとも言う。)
「うごぉっ!?」
その背中はすっかり油断しきっていたのか、私の(ピー)kgの重さに耐え切れず、あっけなく崩れ去ってしまった。
地に膝と手をついて、アイタタタタと背中をさする近藤さんは、アタックしたのが私だということはわかったらしく、いきなり何するんだよ白雪ちゃん、と涙目で抗議した。
「惚れた男にはアタックあるのみ、っていうじゃないですか」
「どこのシスターの意見だソレ!押して駄目なら引いてみるとかそういうことも思いついてお願いだから!」
「ストーカーに言われたくないもん」
「……だってお妙さん、俺が引いたら引いたで完全スルーなんだもん」
彼は立ち上がって土を払う。彼の口から出たお妙さんという単語はいつも語調が明るくて嫌になる。こんなに嬉しそうなのに嫌になる。私もお妙さんはキライじゃないっていうか寧ろ好きなんだけどな、困った。
「大体ね、白雪ちゃんまだ十八でしょ?総悟と同い年でしょ?歳が離れすぎてて、妹か娘か姪っ子くらいにしか思えないんだよ」
近藤さんは溜息をついた。妹か娘か姪っ子って何だよ。ファミリーシリーズかよチクショウ。恋愛対象にはならねえってか。
「言っとくけど、お妙さんも十八ですから。タメですから」
と反撃すれば、
「お妙さんは、だって、その、特別だし」
彼は顔を赤らめるのだ。私は小さく舌打ちを(心の中で)した。マジむかつくわこのオッサン。
「ていうか大体、俺のどこがいいの?ゴリラだよゴリラ。白雪ちゃんにはもっといい人がいる筈だろう」
ゴリ、いや間違えた近藤さんはそう言って苦笑しなすった。この人は根本的に乙女心がわかっていない。私は近藤さんのことが好きで近藤さんが一番で近藤さんのお嫁さんになりたいんだって、毛ほどもわかっていないのだ。
「……ちょべりば」
「古っ」
口からぽろっと出た悪態にぎょっとする近藤さん。私は空を見上げた。春のうららかな晴れ空である。呑気で、優しくて、風が爽やかだ。
わかってますよー、どうしたって駄目なんだもんね。駄目なもんは駄目だもんね。それでも惚れたものはしょうがない、ってこともわかっている。涙は出てこない。ぽーんと空中に投げ出されたボールのように高く軽くむなしい気持ち。暖かいというにはやや涼しすぎる春の空。
「白雪ちゃん…」
視線を地上に戻せば、近藤さんが、心配そうな顔をして私を見つめていた。そんなに見つめられたら照れる、なんて思わない。保護者ヅラするなよ、見るなら顔赤らめろよ、何ならちょっといやらしい感じの視線でもよこせよ、なんてワガママなことばかり思い浮かぶのだ。両思いが全てじゃないのに、本当に私はワガママなのだ。
ごおっと大きな風が吹く。
「隙ありっ!」
「ぬおほ!?」
がばり。私は彼に正面から抱きついていた。隊服のスカーフが顔にモフッとあたる。抱きつかれた彼はオロオロしている。で、油断していた彼は、やっぱり私の(ピー)kgの重さを支えきれなかった。結果的に私は近藤さんを押し倒す形となる。ごいん、彼は地面に頭を打っていた。痛そうだ。
「ちょ、白雪ちゃ…」
「好きな人の胸って、飛び込みたくなりませんか」
割と大きな声で、私は尋ねた。
「飛び込…いや、まあ、なるけど」
「私は押しますよ」
戸惑う彼の顔を見下ろして、私は宣言した。
「押して押しまくります。引いてなんかやらない」
「………」
「だって、引いたら引いたで近藤さん、完全スルーなんだもん」
私は彼の上からどいた。彼は地面に仰向けに寝たまま、「そうかな?」と真顔で呟いていた。
空に投げ出されたボールは、きれいな弧を描いて、いつかどこかに着地するだろう。もしくは誰かにキャッチされるかもしれない。そうしたらむなしいのは終わりだ。けれどもきっと遠い。わからない。だから私の戦法には、「押す」しかないのだ。
自分の手についた土を払って、近藤さんを助け起こすことはせず、私は屯所の庭を去った。