僕らのヒーロー | ナノ





教会に戻ったのは、それから一時間近くしてからだった。
ライデンとあの男はもう去っているかもしれない。けれど、イリアは……イリアの身体だけはあそこにあるような気がしていた。



「クロロ」



聖堂に続く扉からシャルが青い顔をしてオレを呼ぶ。「イリアが……!」と続けたことで、さっきのあの出来事が悪い冗談や夢ではなく、現実であることを痛感した。



「他のメンツは」

「ライデンとイリア以外、みんないる」

「そうか」



やはり、ライデンはいないらしい。それに、あの男も。見捨てた、という自責の念にかられ、喉の奥が詰まって次の言葉が出ない。
それに気付いたのか、シャルが不思議な顔でこちらを窺うように眉を寄せる。オレは何とかして言葉を出そうと「それで」と口にする。「イリアは」蚊の鳴くような情けない声だった。


「マチが看てる」

「マチが?」

「念が、いまノイリアに一番必要だから」

「そうか」

「ただ、もう……」



表情が曇った。探らなくても言いたいことはわかって、何かを口にしようとした時、「馬鹿言うんじゃないよ!」と切羽つまったようなマチの声が耳に届く。
二人して俯いた顔を跳ねさせて、教会内へと走った。



「あ、クロロ……っ」



元からひどく荒れていた内部は、先の戦いによってさらに廃れてしまっていた。ここで暮らしていた面影などすでにない。完璧に廃墟と化し、所々で穴の開いた壁からは、今となっては嗅ぎ慣れた腐臭や塵が流れこんでくる。
聖堂の端にいたエマが、こちらを見たかと思うと、泣き出しそうな顔でオレを呼び、そのままの表情で「傷が、血が、」と咽ぶ。

要点を得ないエマに駆け寄り、震える背を撫でながらエマの名前を音にする。


「イリアは」

「傷が深くて、マチが頑張ってるんだけど、全然ダメで、血が……っ血が!」

「わかった、落ち着け、エマ」



青い、というよりか、もう白くなりつつある顔でエマが紡ぐ。あの出血量でここまで持ったことが奇跡に近い。クレアがいれば、イリアの傷の治りも違ったのだろう。クレアが帰ってくるまで、持つかどうかなんて答えはわかりきっている。
イリアのほうを見ると、懸命に傷を治すマチの顎を汗の雫が伝って落ちた。



「クレアが帰ってくるまで生きるんだよ! 勝手に死ぬなんて、許さないから!」

「クレア、姉……さ、」



クレアの名前に微かな反応を見せるイリアに歯を食いしばる。
クレアを頼らなければ何もできないと言われれば、本当にそうだった。けれど、それに縋りつくしかない。それほどまでにクレアは強く、絶対的な何かを秘めていた。



「イリア、クレアはもうすぐ帰ってくる」

「クロロ?」

「だから、死ぬな。褒めてもらうんだろ?」

「もち、ろん……ッス」

「よし。マチ、お前とエマはここで待機。イリアの治療の継続を頼む」



やられてばっかりじゃいられない。あの男を殺すまではいけないとしても、せめてライデンを連れて帰らなければ。
イリアの顔をもう一度見る。血の気の失せた顔は、もういついなくなってもおかしくない人の顔をしていた。



「やられてばっかりじゃいられない。オレは行く」

「行くって、どこにだよ」

「まずはマルクス……それか、クレアの仕事仲間のユウトを頼る。そこから絞れば、簡単にあの男に辿り着くだろう」

「あの男……?」

「死んでも後悔のないやつはついてこい」



もう逃げない。逃げてはいけない。
イリアはあれに真正面から挑んだ。勝てない相手だとわかっていながらも、知略の限りを尽くして戦った。
左手に重みが増す。イリアの手を具現化した分厚い本の表紙に重ね、「生きろよ」と呟いた。
へらりと笑うイリアに泣きそうになりながら、マチとエマを除く奴ら全員と今にも崩れてしまいそうな教会を後にした。



△▽△▽



俺を連れ去った男はえらく上機嫌だった。じくりじくりと鈍くも強い痛みを放つ腹部の傷は、手当をされるわけでもなく放ったかされたままで、自分自身で簡易な止血をするほかなかった。

写真を一枚撮られたが、恐らくはクレアに送りつけて反応を楽しんでるんだろう。そこまでの想像なら簡単につく。
だが、どうしてクレアを狙うのか、その明確な理由がわからない。そりゃあ、アイツは歯に衣きせぬ言い方をしてここまで来たぶん周りに敵も多い。オブラートに包んでなんてことをしないせいか、反感を買うことだって人よりかある。



(だから、もっと物言いをどうにかしろっつってんだろーが)



ため息をついた反動で傷が痛む。出血は多い。だが死ぬほどではない。そんなことより、イリアの無事が心配だった。
あの男、確かトゥールフと言っただろうか。どこをどうやれば死ぬか、死ぬギリギリで持ち堪えるか知ってやがる。俺様だって何回も人の死を見てきた人間だ。だからあの一撃はヤバイものだと一瞬で理解できた。

クロロは無事だろうか。他のガキたちはどうだろうか。そして、クレアは――。考えれば考えるほど切りはなく、嫌な予感だけが頭を流れていく。



「シデン」

「あ?」



それはかつて捨てたはずの名前。協会から身を隠した時に、二度と呼ばれることのなくなった名前のはずだった。
相変わらず白いスーツに身を包んだトゥールフが、胡散臭い好青年の笑みを浮かべてこちらへ歩んでくる。その手には携帯と、ぶっそうなもんが握られていた。



「クレアがオレの屋敷を滅茶苦茶にしてくれたみたいでさ」

「は、いい気味だな。たかだか小娘一人なんぞに潰されるなんてよ」

「ああ、それはいいんだよ。それよりも、こっちの方が問題、でっ」

「うぐ――っ!」



革靴のつま先が、塞ぎきっていない傷口へめり込む。更にもう一発。悲鳴が口から零れそうになりそうなのを歯を食いしばって耐え切り、「ずいぶんと優しい、な……っ」と軽口を叩く。



「お前の役目はもうすぐ終わりなんだよ、シデン」

「……そりゃあ、どーも、――っ!」


トゥールフが持っていたペンチのようなもんが、先ほどまでつま先がめり込んでいた場所へと捩じ込まれる。拘束された手錠へと繋がる鎖が激しく立てて揺れ、耳障りな音が耳を刺した。
そのままソイツは携帯を操作し、耳へと当てる。「もしもし?」と楽しげな優しい声とは裏腹に、俺へ行うもんは残虐で、突っ込まれたままの鉄具が身体の何かをつまみ上げ、声にならない声をあげながら意識が途切れそうになるのを必死で繋ぎ止めて床へと爪を立てた。



「気分はどうだい、クリスチャン」

『お前……!』



スピーカーから聞こえてきたのは姿をくらましていたクレアだ。
一瞬でこいつの目的が再び闇に帰る。動機が不明すぎる。クレアに恨みを持っているわりに、その感情が全然読み取れねえ。嫌悪や憎悪なんてもんは、クレアと会話を続けるトゥールフからは感じられず、むしろ、あの目に映るのは愛欲に似たもののように思えた。



『せっかく来てやったのにいないなんて。にしても、ずいぶん役に立たない人間ばっか集わせるとは、ユノワーラのレベルも知れてるな』

「おっとー? あんまり大きな口を叩くと後悔することになるぜ?」

『馬鹿なこと言ってんじゃねーよ小心者が。影でコソコソとゴキブリみてえなマネを……』

「ぐ、あ"ぁあああ!!」



トゥールフの腕に力が籠もる。それに連動してより酷く潰された内臓に、頭を床に打ち付けた。
ぶちぶちと自分の身体から嫌な音がなって、目玉が裏返りそうな痛みが脳を直撃する。
スピーカー越しのクレアが息を呑んで、俺の名前をよぶ。「わかっただろ?」と悪びれた様子もないトゥールフが、そのまま腹部に埋まっていたペンチを引き抜いた。



「――ッ!」



一瞬で意識が飛ぶ。目の前がチカチカと変な色に染まり、吐瀉物が喉をせり上がった。
そのまま吐き出し、次いで真っ赤な血が床を汚す。


『やめろ、お前、何してる……!』

「気にすんなよ、ちょっと引き抜いてるだけだろ?」

『……っこの、クソ野郎』



クレアの言葉にニッコリと微笑んだトゥールフは、次にペンチを俺の口へと突っ込んでガチりと奥歯を挟む。まさか、そう思うやいなや、すさまじい力でそれが引きぬかれ、再び獣のような声が部屋にこだました。



『やめろ。やめ――』

「教会に帰れよクレア。それで荷物なんて捨てて、俺様のところへ来い。場所は知ってるだろ?」

『待て、まだお前には聞きたいことが』



クレアの言葉を乱暴に遮るように携帯が壊される。
荒い息をつく俺へ、若干驚いたような顔をしたトゥールフは「意識飛ばせる気だったんだけどなあ」とナイフを取り出した。



「案外タフだねえ……殺すのも解体するのも面倒くさそうだ」

「は……、どーも……」



息をするのさえ苦しい。苦しげにそう返すと、くるくるとそれを弄んでたそれがピタリと止まる。そして目先に突きつけられた切っ先が、ライトを反射してキラリと光った。



「ずいぶん鍛えたようだけどさ」

「まさ、か」

「ここはさすがに柔らかいでしょ?」



迷いなく、寸分の狂いもなく、その切っ先は俺の眼球へと――。
鼓膜を自分の声が震わせる。狂ったような声が、何度も何度も目を貫くナイフの回数の分だけ響いて頭が痛くなった。
視界が白く銀色に染まり、やがて、一瞬のうちに墨汁でもぶちまけたような黒に意識ごと飲み込まれた。



△▽△▽



久しぶりのゴミ山に目が痛む。流れてくる涙を拭い、鼻水をすすって噎せた。
視界と体調は絶不調だが、そんなことで立ち止まって入られないと、走る足はスピードを増してガラクタの山を踏みつけた。

あの日……ロイドを回収しにトゥールフの屋敷へ乗り込んだ時に受けた電話。聞こえたライデンの悲鳴に、一瞬なんの冗談かと思ったが、二回目の声にそれは事実なのだと理解した。
何をされているかはわからないし、理解もしたくない。だけど、ライデンがヒドイ目にあってることだけはわかってしまった。



(無事でいてくれ)



ライデンが攫われたとなれば、トゥールフは一度教会へ向かったに違いない。あそこにはクロロがいる。もしかしたら、あの子もライデンと同じでボロボロにされているかもしれないと思うと脚がもつれた。



「クロロ、ライデン……!」



失いたくない。これまでの日常を。今までの幸せな日々を。
ここの角さえ曲がれば、教会はもうすぐだ。この角さえ曲がれば、あの教会へ帰れば、またいつもみたいに馬鹿な髭面が「おかえり」と出迎えてくれるはずなんだ。そうしてクロロを筆頭に、「また仕事」と生意気なガキ共に文句を言われるはずなんだ。
酷く心を掻き乱されながら、最後の曲がり角を曲がる。
まだ、やりたいことがある。まだ、アイツに伝えられてない言葉だってたくさんある。まだ、あの子達に教えられてないことや、してあげたいことだっていっぱいあった。
どうか間に合って。生きていてと願いながら、あたしは今にも崩れそうな教会のドアを蹴り破った。









そうしてあたしは、日常の終焉を知る。



「クレア……、イリアがっ」



土気色をして、もう動かなくなりそうなイリアを見て、今まで何が起きても無事だったものが、ピシリと音を立てて軋んだ。