【きずのものずき】

「水に濡らさず、あまり歩かないようにしてください」
 そんな事を言いながら、うす赤い肉を覗かせる傷を縫う男を、牧野は気死寸前の顔色で眺めていた。
 宮田の射った麻酔のお陰で痛みは鈍っているが、己の一部分とはいえ生々しい裂傷を目の当たりにしていると、胃がむかむかして喉元まで苦い液が込み上げてくる。
 事の顛末は、そうたいした事情ではない。
 台風で壊れた教会の柵を修繕しようと大工道具を持ち出したまでは良かったが、鋭利な木片で左の手首の下から肘近くまでを削いでしまい、這うようにして八尾に助けを求めた。八尾は、蒼白で震えている牧野を見て余程の重傷だと思ったのか、慌てて宮田医院に連絡し、こうして自宅で宮田の往診を受ける羽目になった……というわけだ。
 現在、牧野は弱った状態で宮田と二人きりというあまりありがたくない状況に陥っている。
『求導師様、宮田先生がいらしてくださったわ。もう安心よ。先生、お願いします』
 そう言って、宮田と入れ違いのように出て行こうとする八尾を思わず呼び止めてしまった時は、どこか裏切られたような、心細い気持ちでいっぱいだった。てっきり、治療が終わるまでいてくれるものだと心得ていたのだ。
『や、八尾さん……』
『私は夕方まで教会にいますからね。求導師様は、お休みになって大丈夫です』
 優しい励ましは何の足しにもならず……どころか、宮田の視線の冷やかさが数段増した気がして、牧野は情けないやら心もとないやらで、すっかり委縮しきってしまった。
 それでも、宮田は医師としての仕事をきっちりとこなし、牧野が傷を負った状況を聞いても醜態を馬鹿にすることもなく、淡々と処置を進めた……ように思える。いつもの鉄面皮と無感動な声から、内面を推し量ることなどできはしないのだが。
 黒い糸で綴じた傷口がガーゼと包帯で覆い隠され、見えなくなると、多少、気分が軽くなる。
 その時になってようやく、牧野は宮田に満足な挨拶もしていないことを思い出した。
「あの、ありがとうございます……宮田さん」
「一応、炎症を抑える抗生剤と痛み止めを出しておきます。容量はきちんと守って服用を。効かないようでしたら、呼び出してください」
「効かないことがあるんですか」
「万が一の話です」
 青くなった牧野に眉ひとつ動かさずに応じ、宮田は「しかし、意外だな」とひとりごとのように呟いた。
「何がですか?」
「処置の間、私の手元を見ていたでしょう。牧野さんは傷を怖がると思っていましたよ」
 暗に臆病を謗られている気もするが、事実なので否定はできない。
「だ、だって……宮田さんが手当てしてくださってるのに失礼でしょう、そんな……」
 それに、宮田の手つきは機械のように正確で、言ってしまえば鮮やかなもので、彼自身への印象は別として安心できるものではあったのだ。
 その気持ちをを上手く言い表す言葉を見つけられず、牧野は語尾を濁し、俯き加減になりながら宮田を伺い見た。
「失礼、ね」
 何が面白かったのか宮田は唇の端を持ち上げ、すぐに無表情に戻った。
「経過を見ますので、二日後に医院までいらしてください。では、お大事に」
 往診鞄を手に部屋を出る宮田を追って立ち上がると、傷口がじくりと痛んだ。
 思わず庇った右手の平からは、包帯の粗く柔らかい繊維の感触は伝わるが、左腕は触られている感覚がない。麻酔が効いているのだから当然だが、自分のものではないような、妙な感じだ。
 宮田を見送り、居間に戻ると牧野は虚脱感と共に年代物のソファに沈みこんだ。自宅で宮田の往診を受けるのは、子供の頃に麻疹にかかって先代にみてもらった時以来かもしれない。その二日後に宮田も麻疹になったと義父に聞いて、自分がうつしたのかと後ろめたくなったものだ。
 余計なことまで思い出すうちに、骨まで凝っていた緊張がゆるやかに解け、同時に、ますます情けない気分になる。戸籍上の従兄弟、実の弟を相手に、自分は何をここまで気をはってしまうのだろうか。
 子供の頃は宮田の役割もよく飲み込めないまま、あの暗く冷たい目を恐れていた。
 今は自分も不入谷の求導師として、村の禁忌、祭壇の奥の闇について良く承知している。
 それだけに、ますます恐ろしい。
 自身と同じ姿かたち、同じ血を持つ弟が、神代のために手を汚していること。
 儀式を失敗した時に、自分を待ち受けているもの―――否、どちらにせよ、手を血に染めなければならないこと。
 宮田の存在そのものが、牧野にそれらすべての事実を突きつけてくる。まるで、鏡だ。完璧な対称のもうひとりの自分の無機質な眼差しが、牧野の怯惰を、傷を恐れる心を責める。
「……でも、来てくれた」
 嫌な顔ひとつせず……牧野をからかうような事を言ったのは、もしかして気を軽くするためだったろうか。
 それはなぜだか、確信に近い思いだった。
 もう一度、宮田が巻いた包帯をそっとさすり、感覚の薄い二の腕から手首の先までを辿ってみる。
 確かに牧野の痛みを内包しているものの、自分のものではないような、よそよそしい感覚。
 そっくり同じかたちをしているはずの、宮田の腕に触れたら、こんな感触がするのだろうか。
『もし、全てが終わったら』
 決して、口に出したことのない空想を、ぼんやりと弄ぶ。
 儀式が終わり、不入谷の求導師の……呪いじみた重荷から解放されたら。
 自分は宮田に対して、もう少し違った接し方ができるのではないだろうか。
 いまさら兄弟になるのは無理だとしても、せめて、近しい人間同士として当たり前の会話を……具体的にどうすればよいのかは、まるで思い浮かばないけれど。
「宮田さん」
 痛みを避けてそうっと掴んでみた腕は、他人のもののような、それでいて掌になじむ感触がした。




 往診鞄を診察台に放り、中から、ビニール袋に突っ込んであった血に汚れた脱脂綿を取りだす。
 水気を含んだ赤は、数十分前には牧野の身体の中を巡っていたものだ。頼りない重さは、あの男の在り方に似ている。
 大の男相手に、たかだか四針程度の傷を縫うのに局所麻酔をかけてやった自分の慈悲深さに溜息が出る。
 八尾に呼び出された時もそうだ。
 婦人会の救急講習で習ったとかで、上膊部を縛って無事に止血できた……という八尾の言葉だけで、緊急事態でも何でもないのは理解できた。
 迷信深い年寄り連中には悪名高い宮田医院、暇潰しに訪れる不謹慎な老人はそう多くないが、それでも、朝晩で寒暖の激しい季節にはそれなりに患者がやってくる。決して、暇ではないのだ。
『私の専門は内科なんですがね。他の病院に行ったほうがいいんじゃないですか』
『でも、求導師様を町の病院までお連れするのも時間がかかるし……お顔も真っ青で、とても弱っていらっしゃるのよ』
 八尾はさも牧野を案じているような素振りで、実は無意識下に相当馬鹿にしているんじゃないだろうか。仮にも三十の坂が見えてきた男に対して、この過保護さはないだろう。
 そこまで重傷なら救急車でも呼べ、と言いたいのを堪えて、宮田は『今から伺います』と応じた。
 八尾も牧野も自動車の運転はできないが、足が無事なら宮田医院まで歩かせるぐらいできるはずだ。どれだけ甘やかす気だと毒吐きながら車に乗り込み、わざと遠回りの道を選んだのは多少の嫌がらせだ。
 子供の頃、父について一度上がったきりだった牧野の自宅は、その頃から時間が一秒も進んでいないような変化のなさで宮田をあっさりと迎え入れた。
 宮田の屋敷とは真逆の、清貧という言葉を具現化したような、こじんまりと質素な家。玄関の柱に掛かる煤けた柱時計も、埃に覆われた額も、対象的に艶々と磨かれた床板の軋みさえも、何もかも変わらない。
(変わらないといえば、この女もだ)
 先に立って牧野の元へ案内する八尾のきっちりとまとめあげた髪は真っ黒で、うなじは鮮やかに白い。
 皺ひとつない顔で、まるで年齢を重ねている様子がないのが極めて不気味だ……そこに疑問を持つ者は例外なく始末されるのだから、ばけもの以外の何物でもないはずなのに、あの臆病者の牧野が彼女に頼りきっているのは滑稽で、なんとも気持ちの悪いことだ。
 そうして、八尾の白い手が開けた扉から、今にも怜治が顔を出して『司郎くん、いらっしゃい』などと、温和な笑みを見せるのではないかと―――埒もない空想は、鏡の中に見る顔が、不安そうにこちらを見つめたことで霧散した。
 案の定、牧野の傷はそう大きなものではなく、早めに処置をしたので痕も残るまいと思われた。木片から雑菌が入り、化膿でもすれば話は別だが……あれだけ洗ってやったのだから、その心配もないはずだ。
 麻酔注射をしたあと、みっともなく怯えている牧野を台所に連行し、傷口を水道水で洗ってやった……宮田にとっては残念なことに、嫌がらせではなく正当な治療の一環だ。誰が相手でも同じことをすると断言できる。
 薬で麻痺しているのを良いことに遠慮なく指で抉ってやったが、牧野は眉を下げ、口の中で何やら―――祈りの言葉か、あれは―――を唱えていた。痛むわけがないのだから、あれは、精神的な圧迫に耐えていたのだろう。
 なまあたたかくぬかるんだ肉の感触は、宮田の心中にさしたる感銘を与えなかったが、自分の行為で慄いている牧野を見るのは少々溜飲が下がった。
 それは、ずっと昔、白い、消毒液の臭いがする部屋で、包帯を抱えて立ちすくんでいた子供の表情と重なる。
 義母……涼子の常軌を逸した「躾け」で負った傷は、いつも自分で治療していた。
 打撲、掻き傷、火傷、扼痕。
 あまり酷いものであれば義父が処置していたが、宮田を、檻に入れた実験動物か何かのような目で見ていた義父が、その傷に関して涼子に意見したという記憶はない。
 実際、どうでも良かったのだろう。
『あまり私の手を煩わせるな』
 そう言われたのを最後に、義父に治療を頼むことは止めた。
 あの日は、熱を持った傷口から膿が出はじめていたので、主の居ない保健室の道具を拝借して包帯を取り替えていたのだ。時代がかった赤い液体を染み込ませた脱脂綿で傷を拭い取り、骨まで突き通すような痛みは歯を噛み締めて堪えた。
 そうして、痛みがじりじりと焦げつくようなものに収まりだしたところでガーゼを当て、巻き直そうとした包帯を、あの子供が取り上げたのだ。
『宮田くん……』
 眉尻を下げ、目に涙をためて、包帯をぎゅっと握った手を胸に引きつけて。
 傷をじっと見つめて、唇はもの言いたげに震えていたけれど、いくら待ってもそこから言葉の続きは出てこなかった。
『……かえして、牧野くん』
 伸ばした右手の内側にくっきりと残った指のかたちの痣も、彼に見えていなかったはずはない。それでも牧野は何も言わず、ただ恐怖に塗りつぶされた目で包帯を宮田に押しつけ、逃げるように駆け去っていった。
 その時はもう、兄に対して何かを期待することは止めていた。だから、失望することもなかったのだ。ただ、自分とそっくりな形で、傷の無い腕を持つ彼が駆け去っていった先にはあたたかい家があり、彼自身の名前で呼んでもらえるのだと……自分とは決定的に違うのだと、そう思うと、胸の底が寒くなった。
 とっくに死んでしまった“宮田司郎”の身代りとして完璧な“宮田の跡取り”であることを求められて、息苦しい牢獄に繋ぎ止められたも同然の暮らし。村人からは蔑まれ、疎まれ、母親からは歪みきった愛情を押し付けられる。せめて比較対象がいなければその惨めさを直視せずに済んだのに、明暗は残酷なほど自分達の足元に影を落としていた。
 もし、あの時に。
 どうしたの、と。
 たった一言、その問いが、彼の口から出ていたなら。
 だいじょうぶ、と。
 いたわる声が、そこにあったなら。
 何かが変わっていただろうか。
――― 馬鹿馬鹿しい。
 仮定の話は畢竟、実現しなかった事象でしかない。いくら積み重ねても無意味な話だ。
 法衣を脱いだ白いシャツ姿で青い顔で傷を押さえていた牧野は、普段は野暮ったい几帳面さで整えられた前髪が乱れて、まるで……宮田がそこにいるような錯覚を引き起こした。
 重ねて、麻酔代わりに氷を当てて麻痺させた自分の肌と牧野のそれはよく似た手触りをしていた。自分の傷を治療しているような、奇妙な感覚に陥ったのはそのせいだ。
 傷の理由を聞いてやり、何もかも世話を焼いてやって。
 あの日に牧野がしなかったことを全てしてやったのは、捩れた意趣返しだったかもしれない。
 よくよく根が深い。
 かわいた、自嘲の笑みが零れる。
『だって、宮田さんが手当てしてくださってるのに失礼でしょう』
 青い顔で処置の手元を見つめていたことを揶揄すれば、そんな言葉が返ってきたのには意表をつかれた。
 宮田が危害を加えるのではないかと警戒でもしているのかと思ったのに。
 義務感で見ていたというのが、なんとも偽善に満ちた彼らしい。
 それともあれは、他人の傷と痛みを、己に引き換えて怯えるばかりだった頃から少しは成長したというのだろうか。
――― だとしても、どうにもならない。
 宮田はひとつ息を吐き、手に持ったままだった、牧野の血に汚れたビニール袋を屑かごに放り入れた。
 彼と自分とはなにもかもが違う。
 雨の夜、自分たちを抱きあげた腕の主が違っていた。それが、全てを断裂せしめた。
 道は二度と重ならず、自分は陽の射さぬ場所を、疾うに死んだ女の呪縛を引きずって歩むしかない。
 だが、それでも。
 二日後、求導師らしく取り繕った牧野が診察室にやってきた時、自分はやはり、己の腕の包帯を解き、傷を暴く錯覚を味わうのだろう―――それは、奇妙な諦念に満ちた確信だった。



(2012/07/23)
(牧野さんが「宮田」になった錯覚はするけど、自分が牧野さんになった錯覚はしない先生。)




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