日和見主義 | ナノ

第八話 救い



「日和!!」

そんなことを思っていたからだろうか。
死ぬ間際の幻聴か、トウマ先輩の声が聞こえた気がした。

死を覚悟して窓から飛び降りたのに、いつまで経っても痛みはやって来ないばかりか、私はいつの間にか人の温もりに包まれているようだった。

どうして。
私、生きている……?

「日和っ、日和!大丈夫?怪我は?痛いところはない?」
「トウマ、先輩……?」
「日和!」

視界いっぱいに広がるトウマ先輩の顔は、先輩には似つかわしくない涙でぐちゃぐちゃの顔だった。

「まさかとは思ったけど、本当に窓から飛び降りてくるんだもの。無事に受け止められて良かった。ごめんね日和。あいつが、裕典が、こんなことするなんて……。気づいてあげられなくてごめんっ」

これは幻だろうか。
あの高さから落ちて無事だったなんて、信じられない。

死に際の夢でも見ているのかと錯覚しそうになるも、宝物のように私を優しく抱きしめるトウマ先輩の肩が震えていることに気づき、紛れもない現実なんだと悟った。

「どうしてここが……。先輩が、受け止めてくれたんですか」
「そうだよ。怖い思いをさせてごめんね。本当にごめん」

見上げると空が赤く染まっている。

違う。
燃えているんだ。
さっきまで私がいた、あの教室が。

「あの人……裕典先輩は」
「弟くんが向かったからたぶん大丈夫だとは思うけど」
「晴が?」

無事だったんだ、良かった……。

「うん。もうじき他の人たちも来るはずだよ。救急車と消防車、それに警察も呼んだからね」
「そうですか」

一気に体の力が抜ける。
トウマ先輩は私の腕の拘束を解いてくれた。
両腕が自由になった私は、先輩に体を預けるようにして手を彼の背中へと回す。

「ありがとうございます、トウマ先輩。あと、ごめんなさい……」
「どうして日和が謝るの」
「だって、私、トウマ先輩のこと疑っちゃって、それで」
「うん。でも、そんなことはどうでもいいよ。言ったでしょ?日和さえ無事でいてくれれば、それでいいって」

トウマ先輩の言葉に涙が出そうになった。
こんなに取り柄のない私を、風見鶏で日和見主義な私を、それでも先輩は寛容に受け入れてくれている。
もう少しで私は、大切な人を失ってしまうところだったのだ。

「ねぇ、日和は覚えていないだろうけど、俺が告白するよりずっと前に俺たちは出会っているんだよ」
「え……?」
「桜が満開の頃、まだ中学生になりたてだった時期かな。家庭のゴタゴタでというか、父に愛人がいることが発覚してね……精神的に参っていた頃に」

愛人。
おそらくその子供が、裕典先輩なのだろう。
先輩は愛人の存在を知っていたけど、その相手に子供がいることは知らなかったらしい。

「食事も喉を通らなくて、栄養失調の一歩手前になっちゃって。自分で言うのもなんだけど、かなりひどい状態だったと思う。目つきとかも相当荒んでて、何もかもが上手くいかなくなって、生きてるのに死んでるみたいな感じだったかな。それで、父に愛されてると思ってたのに、愛人の発覚で自分の存在意義を見失って自殺を考えたんだ」
「……」
「そこで日和、きみに出会った」

私に……?

「ふふ。本当に覚えてないみたいだね。俺にしてみたら人生で一番の思い出なんだけどな」
「す、すみません……」
「でも覚えててくれなくて助かったかも。あの時の俺は本当に格好悪くて、春の陽だまりみたいなきみには絶対に似合わない男だったから」
「そんなことは」
「実際にそうだったんだよ。日和は俺にとって女神様みたいな子なんだ。入水自殺を考えて雨の中橋の上に立っていた俺を、多くの人が行き交う中で、日和だけが気にかけてくれた」

雨の中、というフレーズを聞いて、記憶の引き出しが開かれた。

そうだ、そういえば。
大雨の天候で、傘も差さずに佇む男の人がいて気になったんだ。

しばらく見ていたら、急に橋の欄干に足をかけるからびっくりして止めに入ってしまったんだっけ。

『な、何やってるんですか!』
『っ』
『自殺なんて考えちゃダメですよ!理由とか分かんないですけど、生きることを放棄するのは、とにかくダメなんです!』
『離せ!何なんだお前はっ』
『えっと、わ、私、弟によく日和見主義ってバカにされるんです!でも日和見主義って、素敵なことじゃありませんか?』
『はあ?』
『生きたいから、うまく生きたいから、流されるんです!勢力の強い方に傾いて何が悪いんですか、みんなに愛想良くして何が悪いんですかっ。平和に、要領よく生きていたいから、日和見主義なんですよ!』

――なんて、おおよそ見当違いなことを熱弁していた記憶がある。
振り返ってみるとなんて恥ずかしいことを私は口にしていたのだろう。
言ってることはめちゃくちゃで、自殺を図る相手に説くセリフではない。
ああ、穴があったら入ってしまいたい。

「あのときは、日和のあまりの剣幕に押されて自殺するのをやめたんだよ。言葉より何より、それまで他人であったはずの日和が必死に俺を止めてくれてる様子が嬉しくて、俺はまだ生きてていいのかって感極まったんだ」

なんでこんなに大きな出来事を忘れてしまっていたのだろう。
今と出で立ちが違うとは言え、思い返してみればあれは確かにトウマ先輩だったのに。

「それから、俺は勇気が持てなくて、いつも日和を見ているばっかりで。もっと自分を磨かなければ、日和に釣り合わないと思ったんだ。偶然にも同じ高校になったときは、運命を感じたよ。俺だけの春の精……それを周りに話したら、“春の君”だなんだのとはやし立てられて少し恥ずかしかったな」
「トウマ先輩」
「日和は俺を生かしてくれた。日和が俺の生きる意味なんだ。日和、ありがとう。きみに出会えて、俺は世界一の幸せ者になった」

遠くでサイレンの音がする。

お礼を言うのは私の方だ。
こんな私を好きになってくれてありがとう。
助けてくれてありがとう。

私も先輩のことが――。

その後駆けつけた消防隊によって教室は鎮火され、弟と裕典先輩も救い出された。
弟は玄関先で裕典先輩にスタンガンを浴びせられ気絶したものの、幸いにもすぐに意識を取り戻し、ちょうどそのとき家を訪ねにやって来たトウマ先輩と共に、連れ去られた私のあとを追ってくれたらしい。

裕典先輩は重度の一酸化炭素中毒のために意識が昏睡しているらしく、一週間経っても変化の兆しは見られなかった。
トウマ先輩が言うには一種の植物人間状態で、医者からもこれ以上の回復は厳しいと診断されたようだった。
トウマ先輩たっての希望により、今は延命治療が成されている。

今回のことは裕典先輩の放火事件として処理され、彼を除いて、私たちはいつも通りの日常へと戻った。





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