小説 のコピー | ナノ
口
「ほら、ケンジロウ」
ぴたり、じぶんが呼ばれたような気がして足が止まった。
両腕にさげたチョコが今年も重たくて、だれにも見つからない場所に逃げてきたというのに。宇佐見の目の前には、猫の前で屈む少年がいて一歩下がる。
このまま引き返そうかな。
そう思ってすぐ、もう一度名前を呼ばれた。
「ケンジロウは本当に懐かないなあ」
その言葉通り少年と猫とは1メートルくらいの距離があって、詰めれば逃げ去られそうな気配でピンと猫が少年をみている。
すこし可笑しくなって近づくと、猫はこちらに気がついて歩き出した。あ、と自分に向かう猫に嬉しそうな声を上げる少年だが残念ながら素通りされて、そのまま宇佐見のほうへ来る猫を目で追う。そこでやっと他人の存在に気がついたのか、目を見開いて固まった。
「よお真崎」
「か、いちょ」
手に持っていた猫の餌をサッと隠すけど、べつに怒らないから出せばいいのに。と宇佐見は思う。
「俺にバレンタインでも渡しに来たのか?」
いたずらに笑ってそういえば、苦笑いしながら首を振られた。
「無いです、持ってきましょうか」
「要らねえ」
チョコが無いなんて知っている。
渡されるとわかっていたら、聞かなかった。
ここ数年でじぶんへの好意云々が態度でわかるようになってきたので、昔ほど心労がなく余裕ができている。
この目の前の真崎は、むしろ俺のことが苦手なんだろう。伊神たちの前で楽しそうに笑うあの顔は向けられたことがない。いや、一度だけ、ケンジロウの名前を教えたときに見たような気がする。でもそれもほんの一瞬のことで思い出せそうにない。
木陰にチョコの紙袋を置いて座ると、猫が待ってましたと言わんばかりにあぐらの上に乗ってくる。
「やっぱり会長にしか懐かないんですかね」
そう言って立ち上がると、膝についた砂埃をはらう真崎。
きっともう立ち去ろうとするんだろう。
1人になりたかったからここへ来たけど、真崎なら別に問題ないのにな。と思いつつ去るなら去るでまあいいかと猫を撫でた。
「じゃあ…」
「それ、餌貰っといてやる」
え、と目を見開く真崎。
まさかバレてないと思ってたのか、隠すように持っていた餌をバツ悪そうに取り出す。
「あ、これ…バレンタインにと思って」
「猫にバレンタインなんて、千鶴達にもちゃんと用意してんのか?」
くっくっくと笑いながら差し出された餌を受け取ると、真崎はなんで伊神達にと不思議そうに首を傾げた。そうか、だれにも渡すつもりが無いならケンジロウが本命みたいなもんだな。宇佐見は良かったなあと猫を撫でるが、そんなこと知ったこっちゃない猫はただゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「お返し待ってるよ、ケンジロウ」
ちかくに来て餌を渡した真崎は、猫に触ることなくただそう声をかける。
ぴく、と動いたのは猫の耳だけだったか。
やっぱり真崎が猫の名前を呼ぶたびに、じぶんが呼ばれている錯覚が宇佐見を襲う。
他にだれもこの猫の名前を知らないし、呼ばない。宇佐見を下でケンイチロウと呼ぶ人もあまり居ない。居心地の悪さに真崎をじとりと見上げると、なにも知らない真崎はただ睨まれたことに眉をひそめた。
「お返し求めてすみません」
「いやそうじゃねえ」
そもそも猫にお返しなんて求めても小魚咥えてくるだけだろう。そう返したら、案外ファンタジーですよねと真崎が目をそらして笑った。
(おい目を見ろ)
(いや、その、ちょっと)
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