いつか来るその日まで
(クルスとユエリア)
ざり、ざり、と歩くたびに耳慣れない音がする。地に敷き詰められた白い欠片は、全て貝の殻だ。
嗅いだことのない匂いが、風に乗ってユエリアを取り巻いた。少し湿気たように感じる空気と、森では決して聞くことのない、水が激しく岩に打ちつけられる音。
眼前で雄大に、どこまでも果てしなく続く藍色の水溜まり。どんなに目を凝らしても終わりは見えない。王都の人々はこれを海と呼ぶらしい。
彼女は瞬くことも忘れて、陽光を控えめにはじく美しい海に魅入っていた。すると傍らに立っていた青年がくすりと笑う。
「あなたのそんな顔、久しぶりに見ました」
そう言って、クルスは風に煽られて落ちてしまいそうな彼女のフードをもとの位置に正す。翠の髪は耳にかけられ、優しくフードの奥へしまわれた。
「ありがとう。……ねぇ、この匂いは何?」
「ああ、潮風ですね」
「しおかぜ?」
「海の水が空気に混ざってますから。潮のような匂いがするでしょう。水も舐めると塩辛いですよ」
「そうなの? じゃあ、飲み水にはならないの?」
好奇心に満ちあふれる幼子のように質問を投げかける。クルスはそんな彼女へ微笑んだ。ともすれば冷ややかに見える紫の瞳は、穏やかな光を孕んで細められている。
「手間がかかりますが、一応飲むこともできますよ。もしかして、飲んでみたいんですか?」
実はかなり興味があった。水に味がある。それは普段ユエリアが暮らす村では体験できないことであったから、尚更気にかかった。
ずっと以前に交わされた約束。海を見せてくれると言った彼の言葉は守られた。ただ、港は人が多いからとクルスが連れてきてくれたのは、岩場に囲まれた人影のない、さっぱりとした渚だ。今なら人目を気にしなくても良いだろう。こんな機会はもう、二度とないかも知れない。
けれど、海の水を直接飲むのはあまり行儀の良いことではないから、彼は何と言うだろうか。
「やっぱり、だめ?」
「駄目です」
即答され、ユエリアは名残惜しそうに横目で海を見つめる。できればあの不思議な青に触れてみたかったのだ。
気まぐれに寄せては引いていく。あの波は一体どこから始まっているのだろう。再び疑問が湧き出たところで、諦めてクルスに視線を戻せば、彼はどうしてか口元を手で覆っていた。肩が小刻みに震えている。そして観念したように言葉を吐き出した。
「すみません、嘘です。あなたがどうでるか気になって、つい」
からかわれた。
ユエリアは嘘をつかれた不満と、恥ずかしさで朱が差した頬を隠すために、足早に水際へ向かう。後ろから何か言ってくる声が聞こえるが、内容は頭に入ってこない。
(わざわざ聞かなければよかった!)
長い巻きスカートの裾をたくし上げ、靴が濡れるのも構わず波を追いかける。岩にはねた水しぶきが頬にかかり、潮の匂いがより一層濃くなる。
身体で未知の感覚を味わうのは、とても面白い。ユエリアは水が自分のくるぶしまでしかないのをいいことに、思い切り海の沖へ走った。
クルスが珍しく焦ったように叫んでくる。
「ユエリア! 待って、それ以上は危な……」
がくん、と足下が沈み込む。いつの間にか足場が不安定な砂地に変わっている。さらに今までよりも深い場所なようだ。一気に腰上まで海に浸かってしまった。彼女が思っていたよりも海の水は冷たい。
先程まで低いところにあったはずの波が、随分と高く、逆に飲み込まれそうに感じた。
(ああ――避けきれない)
観念して翡翠の瞳をかたく瞑る。同時に後方へ頭を引き寄せられた。均衡が崩れそうになって、必死の思いで掴まったのはクルスの均整がとれた腕。
彼はユエリアを抱き寄せることで、波を受ける盾になった。おかげでクルスは髪まで濡らしてしまったらしい。雫が彼の髪先から首筋を伝う。
「……危ないって言ったじゃないですか! あなたの突飛な行動を予測するのは、本当に難しいですね」
「耳に入ってこなかったのよ! だいたい、あんたが嘘なんて吐くから」
「半分は本気でしたよ、でもユエリアが可愛い反応するから、嘘にしたんです」
「か、かわ……」
「とにかく海から出ましょう。冷えますよ」
ユエリアが絶句していると、彼は彼女の腕を掴んで引き返そうとした。しかし足を砂にとられた状態では、上手く歩けない。海水を含んだ服が身体に重たくまとわりついている。
その様子を見るやクルスは彼女の膝裏に腕を差し入れて、軽々と横抱きにする。驚いた拍子に彼の胸元を縋るように掴んでしまった。
浜辺まで戻ったところで、クルスは彼女をそっと降ろす。礼を言わなければと思う反面、どうにも釈然としない気持ちもあり、ユエリアは俯き黙っていた。
渋面を作り、彼はいつもより低い声で。
「……波に引きずられて、戻れなくなる時もあるんです。溺れてしまってからでは、遅い」
「あたしはもう幼い子どもじゃないわ。それくらい自分で判断できる」
「子どもではないと言うのなら、」
逸らしたままの視線は。
両の頬に添えられた硬い手のひらによって、強制的に合わせられる。風に当たりすぎたせいだろうか。クルスの手が、熱く感じた。
「僕の気持ちも、わかってください」
「それは……」
「わからないなんて言わせませんよ。あれだけのことをしておいて」
そうだ。
クルスが正式に即位して、歳月はすでに二巡りもしている。異端人に対する認識は、クルスと出会った頃よりは軟化しているものの、胸が締め付けられるような話も聞こえる。
その間も彼らの逢瀬は密やかに、粛々と紡がれていた。クルスは立場上、忙しさも相まって頻回に逢うことはできない。ユエリアも今では村の薬草師となっていて、日々を村人と薬草の研究に費やしていた。
そうした毎日を幾度も重ねていくうちに、彼女の心を揺らすものがあった。ユエリアは頬に添えられた彼の手を外そうとして、けれどためらう。一瞬の迷いは、結局自分の手のひらを彼のものと重ねるだけに止められた。
――いつか。
この愛しいひとの手は、ユエリアから離れていくのだろう。大切に、大切に、ずっと胸の奥底で抱いていた温もりが失われてしまったら。きっと自分は昔よりも弱くなる。
指先が僅かに震えて、ユエリアはハッとする。
(悟られてはいけない……クルスには)
彼女は近づいてくるクルスの影に、ゆっくりと瞼を閉ざした。そうして唇に灯された温もりは、いつもより冷たく、どこか苦いとさえ感じた。