たとえ、離れていても
(ユエリアとロッダ)
風の凪いだ夜だった。
自らが営んでいる宿屋の食堂で、ひとりロッダは椅子に腰かけていた。丸い食卓に置いている燭台から、炎の燻る音がよく響く。
こんなにも外が静かなのは、嵐がやって来る前だからだ。
彼はつり気味の双眸を僅かに伏せる。このまま目を閉じれば浮かぶであろう彼女へ想いを馳せ――
***
仰いだ空は、熟れきった果実のように見事な紅だった。村のはずれにある、ひときわ高い丘をロッダは登る。
丘には背の低い草の絨毯が広がっており、穏やかな風に小さな花の蕾が揺れている。
「まって! 待ってってば、ロゥお兄ちゃん!」
若草を踏みならす軽い足音に、ロッダは仕方なく振り返った。
肩辺りで翠髪のおさげを跳ねさせながら、何とも頼りない足取りでユエリアがこちらに駆けてくる。
今にも転んでしまうのではないか。そんな不安から、ロッダは歩く速度を落とし、ついには立ち止まった。
息をはずませてユエリアは彼の前に回り込む。彼女はようやく《涙月》を九つ数えるようになった。だが相変わらずの貧弱な細い体では、この高い丘を登るのは苦労しただろう。
無意識のうちに彼女の頭へ伸びそうになった手を、慌てて引っ込める。幸いというか、ユエリアは息を整えるのに必死で気付いていないようだった。
「あー……ユエリア? 何しにきたの?」
途端に彼女はロッダを睨みつける。しかし疲労が勝るのかすぐに鋭さは消え去った。代わりにユエリアは声を張り上げた。
「ロゥお兄ちゃんこそ、なんでミシェーナにあんなこと言ったの!」
「あんなこと、って」
「かくしごとするやつは、カゾクじゃナイ」
ロッダの口調を真似ているらしい。全く似ていないのだが。
「だってミーが頑固になるからさ。……つい、ムカついて、それで」
「ロゥお兄ちゃんのばか! 今日がなんの日かわかんないの!?」
「は、え……?」
《涙月》をこすと、陽の暖かさはだんだんと増し、応じるように草木の匂いが濃くなる。薄雲はその身を膨らませ、局所的な雨をよく降らせた。
ロッダは記憶を辿る。今日は《陽月》の五日だ。そう、この日は。
「お兄ちゃんの誕生日、でしょう!」
「ごめん待って、すっかりさっぱり忘れてマシタ……。え? でもそれと隠しごとってどういう繋がり?」
「まだわからないの?」
明らかな落胆を見せるユエリアに、ロッダは肩を竦める。
徐々に藍色に塗り替えられていく空は、大地に色濃い影を落とした。
彼は祖父と共に、つい五日程前に王都から村へ帰ってきたばかりだった。王都では祖父の仕事を手伝うことが忙しく、《手紙鳥》さえ飛ばすことが難しかったのだ。だからロッダは、村へ帰るという祖父の言葉に瞳を輝かせた。
しかしいざ帰ってみれば、妹と幼なじみの少女はロッダに隠し事をしたがるし、微妙に避けられている気もする。
《栄月》と《涙月》の季節、彼が居ない間に、彼女たちに何があったというのだろう。ひとり取り残されたロッダは、自分の心がじくじくと腐っていくように感じた。
ミシェーナと些細なことで喧嘩をしてしまったのは、ただの八つ当たりに近いのかもしれない。冷静に考えれば考える程、ロッダは自分が情けなくて、家に帰れなくなってしまった。
ロッダはユエリアに背を向けて草の上に座り込む。
「なんか……こうやって離れちゃうと、わかんなくなるもんだなぁ」
彼は王都で祖父と暮らすうちに、村との違いを学んでいった。
王都では、村のように誰もが自分と知り合いとは限らない。物を買うためには銅貨や銀貨といったお金が必要だと知った。村ではほしいものは物々交換で成り立っていたからだ。
塩漬けされていない、新鮮な肉がよく食卓に並んだ。《時知らせの鐘》の音に驚かなくなり、硬い石畳に足は慣れていく。
それでも、王都にユエリアのような翠髪をもつ人間がいない理由は、まだよく理解できなかった。
「ねぇユエリア」
「うん?」
「もしもこの先、俺が村のこと全部、きれいサッパリ忘れちゃったら、どうする?」
応じる言葉はない。怪訝に思いユエリアを振り仰ぐ。彼女は幼く純粋な瞳を瞬くこともせず、ロッダを見つめていた。ほうけたように、ふっくらとしたかわいらしい唇を半開きにして。
やがて彼女は脱力したのかぺたんとロッダの前に膝をついた。
声をかける暇も与えず、ユエリアは彼の頬を両手で挟み込む。それは彼の手よりも小さくて無力な、やわらかく温かい手のひらだった。
「忘れるなんて言わないで!」
「ユエリア……」
彼女は眉を寄せ、頬を真っ赤にして泣いていた。ロッダは慌てて涙を袖で拭うが、溢れだす涙はとまらない。
「どうしてそんなこと言うの!?」
「ごめん、ユエリア、ごめんね。こんなことで泣くなんて思わなかったんだ」
「こんなことなんかじゃない!」
彼の頬を包む手は、怯えたように小刻みに震えていた。
「離れたって、ずっと会えなくなるわけじゃないもの! あたし、これからも手紙を書く。ロゥお兄ちゃんがいつも思い出せるように、花の種も一緒に贈るわ。だから……だから、忘れないで……!」
ああ、そうだった。
この小さな小さな少女は、大切なものを失うことをとても恐れている。
ロッダは彼女の後頭部にそっと触れて、愛しさを込めて撫でていった。
何故自分があんな風な言葉を放ったのか。彼は答えにやっとたどり着いた。
「寂しかったんだ。俺がいない間に、ユエリアもミーも前よりずっと仲良くなっちゃってて……何ていうか、目と目で会話してたの見てさ。壁を感じちゃったんだよね」
「かべ? なんで?」
「うーん、実は俺にもよくわからない。人間ってフクザツなんだよ。じいちゃんが言ってた」
そう言うとロッダは歯をみせて笑う。つり気味の目が緩く細まった。
ユエリアは彼の話が難しかったのか、珍妙な表情で「フクザツ」と繰り返している。
そんな彼女がおかしくて――いとおしくて、ロッダは思うままにユエリアを抱きしめた。草花の碧い匂いが鼻孔を掠める。華奢な体はロッダの腕の中にすっぽりとおさまってしまった。
彼女は目を丸くして首を傾げる。
「ロゥお兄ちゃん? どうしたの?」
「んー……王都に戻ってもユエリアをすぐ思い出せるように、ね」
「だったら、あたしも!」
「え」
彼女から戸惑いが消え失せ、肉つきの薄い腕が首に力強く巻き付いてくる。
「ゆ、ユエリア……苦しい……」
「だって忘れられたくないもの」
むしろ死にそうになった思い出として一生記憶に残るに違いない。そうロッダは思った。
ユエリアの首締め地獄から解放されたのは、それからしばらく経って彼の意識が飛ぶ寸前のことだった。
「ね、ほんとに忘れないでね?」
よほど不安なのだろう。帰り道にも上目遣いに訴えてくる彼女の頭に、ロッダはぽんと軽く手を置いた。
「あれはジョーダンだよ。俺にとって、ユエリアはずっと大切な子なんだから。忘れるはずない」
ユエリアは嬉しそうに微笑む。それは花が咲き綻ぶ瞬間の可憐さによく似ていた。