風と木々だけが知っている
(クルスとユエリア)






 丁寧にたたまれた外套が、整頓された書き物机の上にぽつんと置いてある。
 それを見たユエリアは、今日何回目か分からないため息を吐き出した。

 その外套は、クルスが一時的にユエリアに羽織らせたもので、彼に返そうと思ってから既に五日が過ぎていた。
 ミシェーナから説教を受けて、彼の食事当番は元通りユエリアが担っている。昼食を渡す時に一緒に返せばいいものの、何故か彼女は外套を返せずにいた。

 奥底に潜む苛立ち。
 その正体が一体何を示しているのか、ユエリアは知っている。
 彼女は用意しておいた昼食を編み籠に詰め、迷った挙げ句、外套を胸に抱えて外に出た。

 早く渡して、早く帰る。そう、それがいい。
 ユエリアはそう思いながらも、ふと、歩く速度を落とす。白い花弁が風に誘われて、緩やかに宙を舞っている。
 村は優しい香りに包まれていた。あちこちに生えている細木には、真っ白な花が枝全体に咲き誇っている。一つが手のひらほどあるそれは、幾重もの薄い花弁を身に纏う。
 《涙月》の終わり頃に咲く花だ。

「こんにちは、ユエリア。今日はフードを被っていなくて大丈夫ですか?」

 いつの間に近づいてきたのだろう。斜向かいからクルスが歩いてくる。
 彼の額には汗が浮かんでいた。腕に抱えているのは重そうな牧草の束。大方、家畜の世話を頼まれたのだろう。

「陽が強くないから、いいの」

 内心の動揺を悟られないよう、ユエリアは籠を握り締める。

「もうお昼ですか。そういえば、当番があなたに戻ったと聞いて楽しみにしていたんですよ」

「楽しみ? ……別に、ミシェーナの作っているものと差はないと思うけど」

 彼は紫の双眸を柔らかく細めた。

「僕は、あなたの作った料理が好きですから」

「……っ! そ、そんなことはどうでもいい! さっさとその束置いてきたらどうなの」

「どうでも良くないですよ。ひょっとして、照れてるんですか?」

「殴るわよ!?」

 ユエリアは彼の背を押して半ば無理矢理追いやった。そうして彼女自身は、火照った頬を木陰で冷ます。
 昼食と一緒に外套をさっさと渡してしまえば終わりだが、クルスは牧草の束で手が埋まっている。彼女は仕方なく、クルスが全ての束を運び終えるまで待つことにした。

 本当に、あの口を開けば開いただけ紡がれる世辞はどうにかならないのか。
 それだけではない。不意打ちの優しさに、ユエリアは戸惑う。

(外の人間に深入りしてはいけないのに……でも、そうだけど、)

「すみません、お待たせしました」

 背後で聞こえた声。ユエリアは思わず胸に抱えた外套を握り締めていた。
 一呼吸をおいて、彼と向き合う。途端、クルスの腕が自分に伸びてきて、彼女は反射で目を閉じた。

 フードを被っていない翠の髪に、何かが差し込まれる、くすぐったい感触。
 それはユエリアの耳のすぐ上に静かにおさまっていた。
 恐々と瞼を押し上げる。手を伸ばして触れてみると、絹のように滑らかで、ひどく柔らかだ。
 はらり、と真白の花弁がひとひら手の中に落ちる。

「――花?」

「どうか外さないで、そのままで。似合っていますよ、ユエリア」

 穏やかな木漏れ日は見守る。風が凪いだ。
 彼女は無言で編み籠を突き出す。きょとんとした様子で、クルスはそれを受け取った。

「ユエリア?」

「昼食。渡したから」

「え、はい?」

「あとこれも。返すわ、外套」

 ぶっきらぼうに言い放って。彼の顔面に外套を押しつける。彼が手間取っている間にユエリアは、踵を返す。
 しかし数歩も行かないうちに腕を掴まれた。純粋な力ではクルスに勝てない。

「ユエリア」

「……何?」

「耳、赤いですよ。やっぱり照れてます?」

「うるさい。照れてない」

「…………。いや、照れてますよね?」

 苛立ちに任せてクルスを振り仰いだ。頭一つ分高い場所にある紫の瞳を、ありったけの怒りを込めて睨んでやる。
 ああ、本当に。どうしてこうも彼は腹立たしいことばかりするのだろう。ユエリアは自分の内に灼熱を感じた。
 クルスは形の良い唇を持ち上げる。

「素直になった方が、もっと可愛いですよ」

 彼女の華麗な平手がクルスに飛んだことは、風と木々だけが知っている。




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