カルミアの樹





 薄い皮は容易く剥ける。親指の先よりも一まわり大きな果実は、口に含めば潤い、独特の甘酸っぱさで少年を魅了した。
 幼い頃、その果実が実る樹に何度も寄り添って。泣きながら果実を頬張って、最後には笑っていた。――思い出すこともない、遠く安寧すぎた日々だった。



***



「水をわけていただけませんか?」

 朗らかな笑みをのせてそう問うてくるのは、簡素な旅装束に身を包んだ若い女だった。飴色の肌に背の中程まで伸びた黒い髪。華奢だが頬には健康そうな朱色がさしている。この大陸ではよく見かける容姿だ。青紫の双眸を除いては。

 レンは突如村を訪れてきた女に驚いたが、彼女には害意が感じられない。彼は土を耕す手を休めて、女を村に一つだけしかない井戸へ連れて行った。
 彼女はカルミアと名乗って、見ているこちらが和やかな気持ちになる程嬉しそうに水を飲む。

 レンは乾いた大地に鍬(くわ)を突き立て、焦げ茶の癖毛を掻く。もうすぐ成人してもいい年頃の彼は、理知的な光を宿す濃緑の瞳で不思議そうにカルミアを見つめていた。
 満足したのだろう。カルミアは口元を袖で拭うと、レンを振り返った。

「ありがとうございました。おいしかったです、お水」

「ああ……。あんた、一人で旅を?」

 思わず聞いてしまったのは、彼女に仲間がいないこともそうだが、何よりあまりにも軽装だったからだ。

「そうですね。ずっと長い間、こうして旅をしていました」

「……。大丈夫なの?」

 彼女は首を傾げる。レンは農耕で自然と鍛えられた自分の腕とカルミアの細いそれを見比べた。この辺りの大地は痩せている。村も少ない。加えて夜は毛布なしには眠れない程に冷えるのだ。

「あの、良かったら、しばらくの間泊めていただけませんか? 迷惑でなかったら」

「俺の家もそうだけど、旅人をもてなす余裕なんてないんだ。……見ての通りの荒れ地だから。寝る場所くらいしか用意できない。それでいいなら、かまわないけど」

 カルミアは表情を曇らせることなく、むしろ破顔して頷く。

「それで、いいんです」

 呆気にとられながらも、彼はカルミアと家路を共にした。村から彼女を追い返さなかったのは、純粋な同情だった。

 その夜、二つある部屋の一つをカルミアに譲り、レンは鋤(すき)や鍬の手入れをしていた。燭台に灯した火だけがぼんやりと手元を照らす。

 食卓と、低い天井に寸分の狂いもなく納まる戸棚。かまどの傍に置かれた籠の中で、薪は寂しく身を寄せている。人が三人程集まれば窮屈に感じるだろう。狭い居間だ。

「まだ起きていたのね」

 その声にレンは驚いて、危うく燭台を倒しかけた。寝衣に薄手の肩掛け。乾いた咳をして、レンの母であるエイデルが、扉の前に佇んでいる。

「母さんこそ、寝てないとだめじゃないか。これ以上体を壊したらどうするんだ」

「大丈夫よ。今日は……いつもより気分がいいの。カルミアさんからもらった、あの干した実のおかげかしら」

 儚く笑むエイデルの腕を取る。以前よりさらに細くなっていた。日を増すごとに彼女は痩せていく。レンは濃緑の瞳を伏せ、静かに唇を噛んだ。



***



 カルミアは妙な女だった。
 彼女は村に滞在して三日になるが、自分から食事を望むことをしない。どころか、勧めてもやんわりと断るのだ。その代わり、彼女は水を欲した。
 水は雨のほとんど降らないこの土地において命の次に大切なもの。しかしレンは自分の取り分を彼女に分け、彼自身は半分の量で日々を過ごしていた。

 ある朝、地面に座り込んで土を手のひらから零していたレンの頭上に、聞き慣れた声が降ってきた。

「レンさんは、どうしてこの土地に住んでいるのですか?」

 レンはその場に仰向けに転がる。ふと、彼女の青紫の瞳と視線がぶつかった。奥底に光を宿す瞳。カルミアは彼の傍らで膝を抱え込み腰をおろす。

「不可抗力だよ。この間まで戦があっただろ。その中心地に俺達は住んでいたんだ。俺はまだ幼くて。逃げるしかないじゃないか」

「でも、ここから去る人もいますよ?」

「ここから先は何があるか解らない。……そんな危険に、あんな状態の母さんを連れて行けるわけないよ」

 カルミアを盗み見ると、彼女は岩に立て掛けられた鍬に目を細めていた。

「だからこうやって土を耕しているんだけど……。何でだろうな。全然作物は育たないし、運良く育っても、こんな荒野じゃ、たかが知れてるんだろうな……。でもさ」

 彼は勢いをつけて立ち上がると、鍬を立て掛けた岩へ歩み寄り、その陰を覗く。手招きをしてカルミアを呼ぶと、同じように岩陰を覗くよう促す。

「これは……ああ、こんな所に」

「すごく小さいけど。かわいい花だろ。こんなにがんばってんだ。まだ全てが終わってるわけじゃないって、俺は信じてる」

 痩せた大地。雑草さえもろくに育たない。井戸の水が何時枯れるのかもわからない。それでもレンは、見捨てない。諦めない。
 積もりゆく沈黙を破ったのは、カルミアだ。

「精霊が、いないのです。ここがこんなに痩せているのは……。精霊さえ戻ってきてくれたら、必ずこの大地も豊かになるはずです」

 レンは徒人だから、精霊が視えない。それでも彼らが恵みの象徴だということは知っていた。

「精霊はどうすれば戻ってくるんだ?」

「簡単にはいかないでしょうね。でも、魔力と、その核となる存在があれば……。レンさん。どうして私を泊めてくれたのですか」

 レンは彼女に向き直る。土のついた指で髪を無造作に掻き回して。

「さぁ……。何でだろうな。けどあんたが傍にいると、本当、何でだろう。懐かしい匂いを思い出すんだよ。だからかな」

 一陣の突風。腕で顔を覆った彼は、その時カルミアがどんな表情をしていたのか、知ることはなかった。


***



 茜色に空が染まり始めた頃、レンはいつものように農具を片付け、居間の椅子にどっかりと座った。先に帰ったはずのカルミアの姿は見えない。家はどこもかしこも静まりかえっていた。
 目についたのは食卓の上。白い紙と、握りこぶし程の、石のようなものが置かれていた。よくよく近づいて見ると紙にはたどたどしい文字が並んでいる。

『レンさんへ。今までお世話になりました。分けていただいたお水、とてもおいしかったです。あなたの力になりたくて。種を置いていきますね。でも、本当に、レンさんに会えて良かったです――』

 たったそれだけの手紙。別れの言葉は記されていないが、きっと彼女は帰ってこないのだろう。レンはそう思った。
 途端に、あの懐かしい匂いが恋しくなる。彼は種をそっと持ち上げた。



***



 カルミアが去って、幾つもの時が過ぎた。

「ここも随分と変わりましたな。世界に騙された気分ですよ」

 旅の魔導師の言葉に、村の長となったレンは穏やかに微笑んだ。

 驚くほど早い成長。
 彼が大切に育てた種は、やがて芽を出し、健やかに丈を伸ばした。間もなく硬く丈夫な樹皮となり、陽を照り返す厚い葉でその身を覆っていった。

 そして最後に、親指の先よりも一まわり大きな、青紫の果実を抱いた。その種をまた、レンは土に植えた。カルミアから贈られたものより幾分成長は遅かったものの、今では村中に広まっている。
 痩せた大地は、もう村のどこにも見当たらない。見渡す限りの緑がまぶしい。ちょうど果実が実る季節もあって、風はほのかに甘かった。
 村人達は皆、この樹を《カルミアの樹》と呼ぶ。

「――それにしても、あなた方は実に幸運ですなぁ。《人化けの樹》に選ばれたんですから」

「……《人化けの樹》……? どういう、ことですか?」

 魔導師は語る。その樹は、別名を《旅する樹》とも言う。彼らの中で特に強い魔力を宿す樹は、人に化けて世界を旅するのだ。
 魔導師は、こうも言った。魔力を失えば、樹は人に化けることが出来なくなるのだと。

『魔力と、その核となる存在があれば……』

 彼女の言葉が蘇る。
 レンは走っていた。走って、心臓の拍動のまま走って。辿り着いたのは最初の《カルミアの樹》。

 彼は青紫の果実を一房手に取った。母のエイデルも、村も、大地も。たった一本の樹が救ったのだ。

 皮も剥かずに、レンは果実を頬張っていく。口内で弾けて、すぐに潤いと独特の甘酸っぱさで満たされた。葉のざわめき。樹の感触。甘い匂い。全てが愛しく、懐かしかった。
 レンは涙を拭いもせずに樹を抱き締める。

「――ありがとう」

 そして青年は幼い頃と同じように笑った。




(fin.)
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