一章 祝福師のカノン 

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『あなたを、あいしてるわ』

 空間に溶けていく声は、あまりにも儚い。そうして彼女は穏やかな笑みをたたえて――息絶えた。



***



 長すぎる馬車旅で、身体中が限界を叫んでいた。急がなければならなかったため、ろくに宿屋に泊まることもできず、ひどい時など夜通し馬車は走り続けた。
 それでも少女は、内から溢れて止まない気持ちを押さえるために、胸の前でぎゅっと両手を組んだ。口角がむずむずしてふやけた表情になりそうなのを、彼女は慌てて律する。

 これからいよいよ、祝福師として守護獣を祝福し、街を支えていくのだ。どれほどそう在りたいと願ったことだろう。
 馬車の扉が開かれる。王都とは違い、吹き込んでくる風は冷ややかで凛としている。
 少女は勢い良く飛び出そうとして、案の定、祝福師の制服の裾につまずいた。

「わっ」

 とっさに受け身をとる。顔面からの着地は何とか防げたが、派手に転んだお陰で白を基調とした制服は土と草で汚れてしまった。肩までの麦色の髪が頬にかかる。波打つ髪はふんわりというより強情なくせっ毛だ。
 けれど少女は、そんなことよりもただただ眼前に広がる景色に目を奪われる。

「ここが、フローシェル……」

 彼女の空色の瞳よりも濃い、吸い込まれそうな空の蒼。
 連なる絶壁の山々と渓谷。その山間に、街は怯むことなく堂々と構えている。
 街自体も平坦より勾配が多く、地形を利用した段々畑が鮮やかな緑を纏う。
 白っぽい灰色が密集している所は、おそらく居住区だろう。

「大丈夫ですか? カノン・グローリー殿」

「あ、はい。ここまでありがとうございました」

 少女――カノンは立ち上がると、御者台から降りてきた男に向かって、簡略化された礼をした。

「では私はこれで失礼しますが、街は見えているからたどり着けますね?」

「はい! ここから真っ直ぐ行って、えっと……左端の橋を渡るんですよね?」

 すると男は呆れたのかため息をつき、手招きをした。

「左端は現在使用禁止ですよ。今使われているのは右端の橋です。やはりフローシェルの入り口まで送っていきます」

「……すみません。そうしてもらえると嬉しいです」

 もともと華奢な身体をさらに小さくして、カノンは羞恥から頬を朱色に染めた。


 そうしてまだ低い位置にあった太陽が天高くで輝き始める頃。
 カノンは男に案内され、無事フローシェルへと足を踏み入れた。男とは先ほど別れを済ませたばかりだ。
 これからは本当に一人きり。カノンは制服の乱れを整え、身体の半分はある鞄を抱えて歩き始めた。

 実は彼女は祝福師としては新米で、本来二、三年かけて各街で修練を積まなければならないところをすっ飛ばしてきている。

『カノン・グローリー。あなたにはこれから、早急に北西のフローシェルへ向かっていただきます。本当は新米のあなたには、もっときちんと修練を重ねてほしかったのですが――』

 大司教の言葉がぼんやりと蘇ってくる。聖任式もそこそこに、カノンは用意できるだけの荷物を鞄に詰めて、馬車に乗り込んだのだ。

(やっと、ここにこれた……)

 フローシェルの守護獣は今、半年以上祝福師からの祝福を受けていないという。見習いを卒業したてのカノンでさえ、それが異様な事態だと理解できる。

(ここが『あの人』のいた街なんだ。こんなに、綺麗なところだったんだ。ーー絶対に守ってみせよう)

 少女は鞄を持ちなおして、静かに深呼吸する。空色の瞳に真摯な光が宿る。

『いいですか、期限は一月。それを越えてしまえば、守護獣は契約の力で消滅してしまいますからね。ええ。街の人達を巻き込んではいけませんよ。……では頼みましたからね、カノン・グローリー』





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