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儚く咲いている  








***



 土の上を裸足で歩いているというのに、何の感触も伝わらない。
 彼女の周囲にはどっしりと構える巨木。老いることなく、天へ天へと伸び、複雑に枝を広げている。
 根元には新しい木の芽がひょっこりと顔を覗かせていた。
 しかしここには、色という色がなかった。幹にも枝にも葉にも。地面や、咲いた花にさえ。

 彼女以外の全ての色が失われていた。

 妙に明るいのに、太陽はどこにも見受けられず、獣の気配だって微塵も感じられない。
 途方に暮れていると、微かに水の湧き出る音を耳にした。他に行くあてもなく、彼女はその音を追って歩き始める。

 虚無の森を抜けると、足の踏み場もない程小さな花が咲き乱れた場所に出た。
 花に埋もれるようにして泉は姿を現わす。さらに奥の大樹の根元まで泉は広がっていた。
 彼女は引き寄せられたように泉の岸まで歩み、そっと膝をついた。何も考えず、両手で水をすくい取る。
 冷たくも熱くもないそれに、唇を寄せて。

「飲んではだめよ」

 耳もとで囁かれた気がして、彼女は驚いて背後を見た。指の隙間から水が零れる。

「誰? 誰かいるの?」

 もっとよく見渡そうと思い、さっと立ち上がった。
 相変わらず色のない景色。彼女が声の主を探すのを諦めかけた時、視界の隅に咲く一輪の花が目に留まった。
 色の欠けた花々に隠されるようにして、その花は儚く咲いている。ごく僅かに色が宿っていた。色は定まらず、花弁はくるくると表情を変化させる。
 ――と、突然花がまばゆい輝きを解き放つ。
 彼女は反射でぎゅっと目を瞑った。

「どうしてこんなところに来たの? ユエリア」

 彼女は――ユエリアは、思い出のままの姿でたおやかに微笑む母を、信じられないという風に見つめた。

「……おかあさん……?」

「こっちにおいでなさいな」

 ふわりと広げられた腕。
 ユエリアは初めて走る幼子のように、頼りなく地を蹴っていた。そうして淡い翠の光をまとう母に、ユエリアはやわらかく抱き止められる。

「こんなに大きくなったのね……ユエリア。私と少しお話しましょう?」

 二人は花を避け、比較的土の割合が多い泉のほとりに並んで腰を下ろした。
 ユエリアは母に尋ねたいことが山のようにある。ここが一体どこなのか。何故色彩が失われているのか。どうして母と会えたのか。
 けれど何から話せばいいのか検討もつかず、結局黙り込んでしまった。
 膝を抱えて小さくなるユエリアの頭へ、ほっそりとした腕が横からすっと伸びてきた。髪を梳くようにして、母は彼女の頭を撫でた。
 不思議なことに温もりが感じられる。他の一切の感覚は消え去っているのに。

「……つらかったのでしょう? あなたのことは、ずっと見ていたから分かるのよ」

「お母さん」

「なぁに?」

 もう枯れ果てたと思っていた涙が、ユエリアの瞳や頬を瞬く間に濡らしていく。

「あたし、どうしてここにいるの?」

 母は目を細め、口もとを緩くほころばせた。

「あなたが、とても哀しんでいたからよ」

「哀しい……?」

「そうでしょう? だってこんなにも、色を失っているわ。ここは大地があなたに見せている夢幻そのものよ」

 哀しい。何がそんなに哀しいのだろう。色なき大地は、ユエリアに何も囁いてこない。

「お母さんは、ずっとここにいたの?」

「――いいえ。あなたに会いに来たのよ」

 頭を撫でていた母の手が、ユエリアの肩を抱く。懐かしい陽光の香り。
 そのかけがえのない温かさにユエリアは縋った。

「ユエリア、あなたの願いは、何?」

 願い。
 そう、彼女はいつの日か願っていた。

(――いつか……ずっと後でもいいから、あたし達を認めてくれる人間が、ひょっこり現れるかも知れない、幻想)

 大地の一族と、王都の人々が共にある未来を。
 彼女が心から愛する大地と大切なひと達。どちらも失いたくなくて、命を溶かし続けた。

『…………ユエリア……』

 ユエリアは息を呑んで空を仰いだ。呼び声が聞こえる。
 傍らの母がユエリアの手を取り、引き上げた。

「ほら、聞こえるでしょう。ユエリアはユエリアの命を、もっと大切にするべきよ」

「でもあたしは、もう」

 躊躇うユエリアを、母は今一度その胸にかき抱いた。
 突風が弾ける。
 景色に色彩の豪雨が降り注いでいく。
 波にのまれたように生まれ変わる世界。

「あなたが大地を愛したように、大地もあなたを愛してるもの。そしてね、ユエリア。あなたが愛しているひとたちを、私たちも愛するわ」



***



 豊穣祭の最終日。
 その夜、ガーディン王国のありとあらゆる草花や木々や土から、幻想的な翠の光が舞い上がった。
 それらはまるで意志を持っているかのように淡く輝き明滅しながら、天空へ吸い込まれていった。
 誰もが口をそろえて言う。

 淡い翠と一緒に、ひどくやさしい子守唄が囁かれていた、と。