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命 02  









 走ることが不可能なユエリアは、デュリオンに半ば引きずられていた。
 上手く動かせない体に鞭打って、男の指に歯を立てるが効果はない。

「……ヒア、どこだ、どこにいる、ヒア!」

 まるで母を失い彷徨う幼子のように、デュリオンは部下の名を呼んでいる。

「何故だ、何故だ何故だ何故だ……私は!」

「待つんだ、デュリオン!」

 彼らを見失うことなく、クルスは確実にデュリオンを追い詰めている。
 やがて、《緑樹の城》の開けた場所に出る。ユエリアはそこがどこなのか知らなかった。平常時に訪れたならば、必ず美しいと思えただろう。
 中央には人為的に造られた泉がある。四方から天へ向かって水が噴き出し、放射状に拡散する。
 辺りに木々はなく、代わりに夜闇に紛れることのない、色彩鮮やかな花が一面に咲き誇っていた。
 ユエリアには花の怯えた囁き声が聞こえてくる。

 デュリオンは片足を軸にして、振り返りざまにユエリアを放り投げた。浮遊感の後に来るだろう衝撃に耐えようと体が緊張して強ばる。
 しかし地面には触れずに、しっかりとクルスの胸に抱かれる。彼にしては珍しく汗ばんでいて、自分の泥の匂いと薄ら混じった。
 すかさずデュリオンが剣で突いてくる。クルスはユエリアを片腕に抱えながら、男の剣を受ける。

「このまま貴様らを串刺しにしてくれる。そして大地の一族を滅ぼし、認めさせてやる」

「まだ間に合うんだ、デュリオン! だがこれ以上の罪は……」

 剣は不協和音を奏で、決して馴れ合うことはない。動けないユエリアで片腕が塞がっているクルスは防御に徹していた。
 ――このままでは。
 ユエリアはクルスの胸を押そうとする。だが反対に強く抱き寄せられただけに終わった。

「じっとしていて。あなたは必ず守ります」

 また、クルスはデュリオンの斬撃を弾いて防ぐ。彼はデュリオンの間断ない剣を受けとめ、時に流している。
 けれど次第にクルスは後退していった。泉が背に迫る。彼に焦りは感じられない。
 クルスはその時になって初めて身をかわした。デュリオンの剣がクルスの右腕を切り裂く。クルスは男の膝を狙い、大振りの剣の腹で打つ。
 崩れかけた均衡を見抜き、クルスはデュリオンを泉へ突き落とした。
 深さは膝までしかないらしく、男は素早く体勢を立て直す。だがクルスがデュリオンへ剣を突き付ける方が数段速かった。

「動くな、デュリオン。剣を置くんだ」

「…………」

 水の冷やかさに正気を取り戻したのか。
 デュリオンは俯いたまま膝を折り、剣を手放した。泉の底に剣は沈む。
 クルスが大地に剣を突き立てて穏やかに問う。

「デュリオン。お前には罪がある。償うその前に、私はお前の望みを聞きたい」

「望み……」

「そうだ」

「私の望みなど、」

 その時、ユエリアはクルスの胸をあらん限りの力で押し退けていた。彼が簡単にユエリアを離してしまったのは、彼女が動けないと思い込んでいたからだろう。
 実際彼女には、歩く力はおろか自分で立ち上がる力すら残っていなかったのだから。
 ごめんなさい、と声にならない声で呟く。

(花の囁きを聞いたの。あの男が、何をしようとしているか)

 彼らは嘘をつかない。
 ユエリアはクルスを押した反動で、泉へよろけた。
 これまで彼女は、何度もクルスを裏切ってきた。

(ごめんなさい。でも、これがさいごの、うらぎり)

 クルスの右腕は負傷している。普段の彼であれば、剣を大地に突き立てるなどしないはずだ。
 大振りの剣は両手剣。負傷した片腕で振るうには、隙が大きすぎる。

 そしてユエリアは、デュリオンがふいに振り上げた剣に貫かれた。
 自分の腹から剣の切っ先が見えるのは、何とも滑稽だと彼女は思った。

「ユエ、リア……」

 呆然としていたクルスが我に返り、唸りながら剣を引き抜く。
 ユエリアの視界はどんどん狭くなって、ついに影がぼんやりと見えるだけになった。
 度重なる痛みで痛覚が麻痺しているらしく、腹に異物感がある以外にユエリアは何も感じない。

 そして剣が男を捕らえた。男の狂気じみた笑い声が途絶え、断末魔の叫びへと転じる。再び激しい音がして、水しぶきが飛び散った。
 花々が男の最期に一斉に身を震わせた。

「ユエリア!」

 傍に駆け寄ってきたのがクルスだと、大地は彼女に教える。
 手を伸ばして彼に触れたかった。名前を呼びたかった。温もりを感じていたかった。

(変ね……こんなにもあんたが、)

「何故あなたなんだ! 僕に向けられた剣を、あなたがどうして……っ」

(いとおしい、なんて)

 クルスはユエリアを抱き起こす。彼女の腹に咲いた大輪の紅い花。それは彼の腕に花弁をちりばめていく。
 彼はユエリアの頭を支え、頬にこびりついた土を拭う。ひな鳥に触れるやさしさで髪を梳いて。

 嘘のように温もりを残すユエリアに、彼は何も言わず唇を重ねた。