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命 01  









 意識はとうの昔に朦朧としていた。倦怠感に適わず瞳を閉ざす。
 あの後、ユエリアはまともに立ち上がることもできず、どうやってかは知らないが城の正面――城門のすぐ傍まで来ていた。
 背中がかなり痛むことを考えると、引きずられたのかも知れなかった。

 耳に入る話し声から、ここが中門を越えた前庭だとユエリアは把握した。
 十字型の木の板に、ユエリアは寝かされている。そこへ黒い布で頭から肩を隠した数名が、彼女の四肢を太い縄で板に括り付けていく。
 彼らは黒い布の下の服装からして、城の兵士達だろう。黒い布で顔を露にしていないのは、きっと誰が処刑を進めているか分からないようにするとか、異端人に呪い殺されるなどというくだらない理由だろうとユエリアは決めつけていた。

 板ごと起こされ、急な体勢の変化に気持ち悪くなる。板は足下の余った部分が土に埋められ、あとは支え石を後方に積んでいる。
 城門付近が騒がしい。余程多くの者が『異端人の処刑』を望んでいるのか。
 どのみち、彼女は溶かしすぎた命をさらに薄く引き伸ばしたいとは思わなかった。それよりも彼女の愛する木々や大地と一緒に、悠久の命となれた方が幸せに思えた。
 滞りなく処刑の準備は進んでいく。もうじき陽が沈み、宵がやってくる。大地に色濃い影が落とし込まれる。空を覆っていくのは、深い夜待ちの紫。

 ――紫。

 ユエリアの翠の瞳から雫が一筋零れ、頬をたどる。彼女の左右で躍り狂って燃えている松明が照らすと、雫は遥か彼方の星々よりも繊細に輝いた。

(クルスに、会いたい……)

 ついさっき泣かないと決めたばかりだったのに。

(皆に、会いたい……!)

 大地と共に在ることが幸せだと決めていたのに。
 どうして。
 どうして。
 こんな、ところで。

 城門の方からだった。遠すぎて、人々の顔はまともに見分けがつかない。声など雑音にしか聞こえないと思っていた。

「ユエリア! ユエリアァ!」

 それは確かにミシェーナの声だった。天を切り裂くかのごとく張り上げられた声。
 城門の先には中門がある。中門から先へは入れないよう兵士達が陣を敷いているにも関わらず、たった一人、抗う者がいた。
 突き飛ばされても、何度でも立ち上がる。頭に白い布を巻き、左腕を三角巾でつっているのは。
 ユエリアのことを、羨ましいと言いながら怖れ、それでも大切な子だと言ってくれた。ロッダだ。

「ミシェーナ! ロッダ兄さぁん!」

 ユエリアの言葉は息が漏れたのみで、彼らには届きもしない。しかしミシェーナとロッダは叫び、抗い続ける。

「無駄な足掻きは見るに耐えんな」

 吐き捨てるようにデュリオンは言って、ユエリアの背後から厳かにやって来る。
 世界を蔑んだ灰と翠の瞳。黒衣に身を包んだ男は、ユエリアを冷酷に見下す。

「奴らによく見えるよう殺してやろう――――剣を」

 いよいよ、処刑が実行されるのだ。ユエリアには大地の力を借りられるだけの体力は残っていない。軋む喉では言葉を音にすることもままならなかった。
 だからユエリアは、朝露に濡れて凛とした若葉のごとく清廉な瞳に、淀んだ男を映しだす。
 松明の傍に立っていた兵士が音もなく進み出る。頭から肩までを黒い布で覆い、両腕には大振りの両刃剣を抱いていた。
 兵士はデュリオンの数歩前で跪き、捧げるように頭を垂れて剣を持ち上げる。
 デュリオンが歩み寄る。剣に手を伸ばした男へ、それまで沈黙していた兵士が突如剣を鞘から引き抜いた。
 的確な剣さばきでデュリオンを凪ぎ払う。間一髪で剣の軌道を読んだデュリオンは、素早く間合いをとる。

「何の真似だ。私に刄を向けるなど――」

「刄を向けて、どうなると?」

 兵士は黒い布を脱ぎ捨てると、ユエリアを一瞥して表情を険しくした。
 夜が始まる中、陽光のように艶やかな金髪は一際目立つ。均整のとれた体型は、兵士の制服を着ることでより示しだされる。
 彼はデュリオンへ剣を構えた。宵の紫が鋭く細められていく。

「遅くなってすみません、ユエリア」

「……クルーレンス……まだ目を覚まさないと報告があったはずだ」

「眠っているだろうな。私の代わりにお前の兵士が」

 ユエリアは瞬きさえも忘れていた。
 十歩とも離れていない場所にクルスが立っている。これが現つだとしたら、何と幸せな夢だろう。彼女の体を奔る痛みが、真実だと告げてくる。
 デュリオンが苛立たしげに兵士達へ命令を下す。

「血迷った王子を捕らえろ! ……どうした、大切なものがあるだろう?」

 人質だ。男はティーオ達のことをほのめかしているのだろう。
 散らばっていた兵士達が顔を見合せ、青ざめながら腰の剣を抜く。かなりの数だ。それでもクルスは一歩も退かない。
 絶望の前庭に、新たな声が響き渡った。

「おとーさんっ!」

「……ティーオ!?」

 クルス達に一番近かった兵士が弾かれたように振り返った先。
 小さな影が息を切らせて走り寄ってくる。兵士は剣を投げ捨てた。脇目もふらずティーオのもとへ向かうと、兵士は自分の息子を思う存分抱きしめた。
 ティーオ達の後ろから、次々と女達が現れた。口々に兵士の名前を呼び、兵士達は我先にと彼女達を目指していく。

 少年はユエリアを指して何か叫んでいる。だがユエリアには何を言っているかまでは判断できなかった。
 彼女はティーオ達が無事に牢を抜け出してくれたことに心の要を緩める。
 束の間に得た安堵はそう続かなかった。
 デュリオンは隙をついて懐に隠し持っていたのであろう短剣を、クルスに投てきする。
 飛来してきた二本の短剣を、クルスは危なげなく剣で叩き落とした。
 その内にデュリオンは兵士の捨てた剣を一瞬で拾い上げると、ユエリアの喉に突き付ける。

「動くな! 動けばこの娘を殺す。……何故だ、何故私の願いは……」

 尻すぼみに男は呟く。剣先が震えて、ユエリアの首筋を浅く切った。
 男にとって兵士を失ったことは結構な痛手のはずだ。あれほど騒がしかった城門付近の人々でさえ、今は水を打ったように静まり返っている。

「ユエリア……」

 名を呼ばれただけだというのに、ユエリアの胸に切なさがなだれ込み溺れそうになる。唇が勝手に彼の名を刻む。
 デュリオンが腰を探り、短剣を握った。ユエリアと板を括りつけていた縄を乱雑に切り捨てていく。
 全てが解かれて崩れ落ちたユエリアは、デュリオンに首もとを掴まれ立ち上がらざるをえなかった。
 男は狂ったように笑い始める。

「……は、はははは! 殺してやる、異端人どもは皆私が滅ぼしてやろうと言っているのだぞ!?」

「ひとに異端も普通もない、ひとはひとだ! 何故そこまで彼女達に固執するんだ、デュリオン」

「貴様に解るものか。否定され続けた者と、許され続けてきた者の……! 解るはずがないのだ!」

 クルスは半歩、デュリオンへ近づく。

「デュリオン、剣をおさめろ。お前が否定し続けるなら、私はお前を肯定し続けよう」

「解ったような口をきくな! その目をやめろ!!」

 最早デュリオンは半狂乱だった。彼を刺すのは幾百、幾千の、異物を見るまなこ。
 男は身を翻すと、ユエリアを片腕に抱えて城の奥へ走りだした。