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たったひとつ 03  









 地下牢を出ると、そこは恋しい緑に包まれた場所だった。しかし西の森ではないことを、ユエリアは理解している。
 背後にそびえる巨大な建物こそ、《緑樹の城》だろう。
 見上げると、石造りの城はユエリアを威圧するかのように腰を据えている。右翼と左翼に二つずつ尖塔が肩を並べており、中央の天守塔は堅牢に構えている。
 よく研磨された外壁の石材は、城の威厳と堅実さを如実に表していた。
 初めて目にするユエリアでなくとも、この城は人を圧倒する力がある。

 彼女が何もかも忘れて城に見入っていると、デュリオンが乱暴に髪を掴んできた。強く引っ張られすぎて、何本かの髪の毛が切れる感覚があった。
 牢を出る時に両手は縄で括られているため、たいした抵抗はできない。
 西の森ほどではないが、城の周囲には多種多様な草花や木々が植えられている。
 定期的に手入れでもされているのだろうか。どの木の枝も同じような長さだ。花は同じ種類でかたまって咲いていた。
 ユエリアはそれらがどこか行儀良すぎると思った。
 デュリオンは人目に触れない道でも選んでいるらしい。割と木々の密集した場所を進んでいた。

(ミシェーナやロッダやクルスは、大丈夫なのかしら……。お願いだから、無事であって)

 自分の所為で彼らに傷を負わせてしまった。自分さえ王都へ来なければ。
 ミシェーナもロッダもクルスも、こんな非道な仕打ちを受けずに済んだのだ。
 クルスはデュリオンと旧知の仲だったようだが、彼一人であればもっと上手く立ち回れたに違いない。

(どうか生きていて)

 ユエリアが切実に願うと、慰めるように木々が囁いてきた。このやさしく、おおらかな音色が王都の人々には聞こえないのだ。

(牢にいたティーオ達は、今頃どうしてるだろう……)

 デュリオンの意識はユエリアに向かせておくことができた。男の異常なまでの執着があったからだろう。錠を破壊してあることは、まだ知られていないはずだ。
 牢から出るか出ないかは彼らの判断に任せるしかない。
 限界まで力を行使した所為か、体はもうずっと悲鳴をあげ続けている。うろだらけで枯れかけた木と変わらない。歩けているのが奇跡だ。

 人の気配を感じて、ユエリアは思考を解いた。先を歩いていたデュリオンも足音で気付いたのだろう。立ち止まる。
 木の陰から、目深にフードを被った人物が歩み出た。

「デュリオン様。準備は完了しております」

「――ヒアか。相変わらず抜かりないな」

 デュリオンの全く警戒していない様子から、逆にユエリアは身構えた。
 擦れ気味な低音で落ち着いた声だ。男か女かは、その声音だけでは判断しづらい。ユエリアはヒアと呼ばれた人物を射抜くように見つめる。
 背はユエリアより低いかも知れない。小柄だ。ローブの裾からのぞく手や足は細く、骨張っている。
 ふとデュリオンと会話していたヒアが、こちらを見た気がしてユエリアはどきりとした。視線に鋭さはないが、束縛感がある。

(それよりも、ヒアという名前、どこかで聞いたような)

 しかし彼らの会話が途絶えてしまったため、ユエリアは再び気を引き締めた。
 木々が風もないのに葉を揺さぶる。傾いだ陽が容赦なく辺り一面を紅に染め上げる。
 デュリオンがにたりと唇を歪ませた。

「聞いていたか? 貴様の愛しの王子は未だに眠っておられるそうだ。残念だったな、晴舞台を見てもらえないとは」

「……そう。見る価値のない舞台だもの。賢い選択だと思うわ」

「つまらん娘だ。奴もすぐに同じ世界へ送ってやる。せいぜい向こう側で幸せに暮らすことだ」

 クルスまでもその手にかけるというのか。

(なんて屈折しているの、この男は)

 ユエリアは少しでも気を抜けば屈してしまいそうな膝を、意志の力でなんとか保っていた。
 嵐の夜が蘇る。
 無抵抗なユエリアの両親を殺した男。
 あの時争うような声が聞こえていたが、あれはクルスとデュリオンが口論していたのだろう。
 尽きることのない怒りがあった。絶対に許すものかと心に誓っていた。
 けれど。
 この男の前では何もかもが塵と同様だと思えた。

 デュリオンは閉鎖的な感情に囚われすぎている。ユエリアの中で灼熱は身を潜め、凍土が隅まで広がっていく。

(この男は誰も信じられないのね。だから、こんな……)

 そう思っていると、突然男の腕が伸びて、ユエリアの首を一気に絞めつける。本能的に身を捩るが、デュリオンの武骨な腕はびくともしない。

「その目をやめろ、今すぐにだ!」

「……、ぐ」

 とうとう肺が潰れそうになっても、ユエリアは止めなかった。
 どうせ殺されるのだ。大勢の前で大地を汚すよりも、今ここにいる二人だけの前で殺された方が、潔く諦めることができそうだったから。

「……デュリオン様。それ以上は」

 だが意外にも男を制止させたのはヒアの一声だ。

「民にもすでに知らせてあります。……今後王になられるのですから、民の楽しみを減らすのは得策ではないかと」

「そうか。お前の言葉は一理あるからな」

 ユエリアの首から興味を失ったように、いとも簡単に手が離れていく。
 咳がおさまらない。咳をする度に体がばらばらに砕け散ってしまいそうな感覚に陥る。
 めまいがしたと思った時には、ユエリアは地面に倒れていた。縄で縛られた不安定な腕では、体を支えきれなかったのだ。
 恐ろしいほど世界が夕陽に飲み込まれている。幻覚なのではないか――体をひねって起き上がろうとして、目についたものがある。
 夕陽よりも鮮やかな、紅。口腔内がいやにねばついていて、錆びた味がする。
 ユエリアは大地に広がった命の残骸を、ただただ瞳に映していた。