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たったひとつ 02  









 ユエリアは数歩下がって、片膝をつく。

「大地よ、私は囁きを聞く者……」

 喉が焼かれる。どくん、とやけに大きな拍動を感じた。それでも彼女は大地に願い乞うた。片手は胸に。もう片手は地面に。体が重い。砂に埋められていくような感覚。
 ユエリア達は、大地に力を借りる際に自分の魔力を媒介としている。魔力を媒介にできている時は、こんなにも体に負担はかからない。
 つまり。魔力が回復していないまま、ユエリアは自分の生命力を媒介にしていた。

(でも、今しかない。あの男はきっとここに来る。その前に)

 体力的にあまり大きな力は行使できない。
 天井を壊しても疲弊したティーオ達では、地上へ脱出できないだろう。ユエリアは鉄格子の中央でぶら下がる錠に意識を集中させた。
 人の頭程度の大きさで、一度きりなら何とかなる。
 体中から嫌な汗が噴き出す。しかしユエリアは止めなかった。
 自分の、たったひとつの命よりも。

(信じると言ってくれたティーオの言葉を、大事にしたい)

 彼女を囲うように、床から淡い翠の光が溢れ出す。それは足元で複雑な紋様を描いていく。
 水でぐっしょりと濡れた翠髪が、風を纏ったように四方へ波打つ。

 唐突な光に驚愕したティーオ達が、次々と牢の手前へ集まってくる。
 ティーオが何事か叫んでいるが、今のユエリアに応える余裕はなかった。
 天井の真上に生えているであろう木々に願いを託す。
 彼らのいる牢の天井から、土屑がぱらり、ぱらりと降り始めた。異変に気付いた少年が上を向くと、そこから数本の太い根が姿をみせる。
 根は大蛇のように緩慢な動作で鉄格子へ絡み付くと、滑らかに錠前まで辿り着いた。

 息を呑んでティーオ達が根を見つめる。ユエリアは胸に添えていた手を、根に向かって煽る。
 根は彼女の手の動きに合わせて錠へ巻き付いていく。

「壊して」

 余程頑丈にできているらしい。錠にヒビは入るが、完全には壊れない。
 ユエリアは打ちつけられる胸の痛みに構わず、さらに術へ力をのせた。やがて錠が歪み、朽ちるようにして崩れ落ちる。
 力を抜いた瞬間、翠の光は消え去り、代わりに抗い難い激痛がユエリアの内側で暴れだす。熱い何かが一気に喉をせり上がってくる。
 彼女は体を折って咳き込んだ。火傷してしまいそうだった。咄嗟に口元を手で覆う。口腔内に鉄臭い苦い味が広がった。

 その事実を、淡々と理解していく。彼女は、大地に命を溶かしすぎた。
 唖然としていたティーオ達がにわかに騒ぎ始める。何を話しているかは、声が多すぎて分からない。ひょっとしたら、命を削りすぎて耳がおかしくなっているのかも知れない。
 そう思った頃、ティーオが鉄格子から首を突き出した。

「おねーさん!」

 ユエリアは何も答えなかった。自分から異端人であると知らせたようなものだ。
 ただ、思う。彼からどんな罵声が降り注いでくるのだろう、と。

(あまりひどいものじゃないと、いいな……)

 分かっていても、面と向かって言われるのは心が引き裂かれる。
 けれど少年は、まるでユエリアを労るかのように優しい声音で聞いてきた。

「大丈夫……? 体、どっか痛いの?」

 信じられないことだった。幻聴ではないかと疑った。

「……おねーさん? ね、泣いてるの? やっぱり痛いの?」

 違う、と首を振る。
 ユエリアはティーオが牢から出て、こちらに来てくれたらいいのに、と思った。そして思いのままティーオを抱きしめるのだ。
 そこまで考えて、ユエリアは微苦笑した。

(あたしがクルスみたいなこと、しようとしてるなんて)

「ありがとうティーオ。あたしは……」

 大丈夫だから、と言おうとして、彼女は言葉を飲み込んだ。
 いきなり差し込んできた強い光に耐えられず、目をぎゅっと瞑る。硬い靴音が近づき、ユエリアの牢の前で止まった。

「もう目を覚ましていたか。おぞましい大地の娘」

 視線だけなのに、ねっとりと肌を舐められているようだ。ユエリアは手の甲で雑に口端の血を拭った。

「……デュリオン。あんたがあたしに何の用?」

 挑発的に。わざと男の意識を自分へと向けさせた。光はティーオ達の牢までは届いていない。
 破壊した錠に気付かれるわけにはいかなかった。

(それにしてもこの男、なんて昏い目をしているの)

 憎悪だけではない。そこには悔恨、挫折、嫉妬、復讐。ありとあらゆる負の感情が詰め込まれている。
 それはまるで。

(ずっと以前の、あたしと同じだわ)

 クルスと出会うよりもっと前だ。独りよがりの屈折した想い。
 デュリオンが不気味に、にやにやと笑っていた。

「貴様の処刑が決定した。今日……豊穣祭の宵に城門を開き、前庭にて実行する。公開処刑など滅多にないことだ。大勢の民が押し寄せるだろう。晴舞台を前にした気分はどうだ?」

 ユエリアは黙ってデュリオンを見据えた。ここまで冷徹に頭が冴えているのは、男が狂気に満ちていたからだ。
 ユエリアはその危うさをよく知っていた。

「どうした。怖くて声も出せないか? 命乞いでもしてみたらどうだ?」

「殺したいなら、殺せばいい」

 ユエリアの無感情さに、デュリオンは笑うのをやめた。

「……何だと? そんな戯れ言を」

「あたしを殺して、あんたの感情におさまりがつくのなら、好きにすればいい」

 男は拳で鉄格子を殴りつけた。灰がかった翠の瞳がぎらぎらとした光を帯びる。

「黙れ、小娘。……まぁいい。貴様を殺した後、大地の一族を根絶やしにしてくれる」

「村の人達は関係ないわ」

「黙れと言った! 貴様らがこの私にした仕打ちを、思い出させてやる」

「仕打ち?」

 聞き返すと、デュリオンは渋い表情になる。舌打ちをして、男は重たげな鎧の懐から鍵を取り出す。
 牢の錠を外すと、中で座り込んでいたユエリアの腕を掴んで無理矢理立たせた。

「無駄話が過ぎた。本来は火炙りの予定だったが――私が貴様の首をはねてやる。光栄に思え」