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たったひとつ 01
***
少年の首筋を、農具の鋭い切っ先が擦った。
『お前みたいな半端者がいるから、俺たちが蔑まれるんだ』
『異端人にもなれない《異端人》め!』
『その薄汚い髪を二度と俺たちの前に曝すんじゃねぇよ!』
薄汚い、と少年は反復して、自分の髪を押さえた。美しい翠とは言いがたい、腐りかけた葉の色。そう彼らは表現する。
大地の朋の証を持ちながら、少年には肝心の『力』が無い。だから大地に祈ることも無意味だと彼は思った。
強い力で腕を引かれる。見上げれば、それは少年にとって唯一の寄る辺である母親の背だった。
『それ以上、この子を傷つけないで!』
言い放った母は――。
母を失い、村から転がるようにして逃げ出した。父は《森の王》に喰われてもういない。
(大地の一族なんて、大地の一族なんて、)
少年はやがて暗い感情を常に纏うようになる。
(みんな滅びてしまえ)
少年が彼女に出会ったのは、ちょうどその頃だ。
『あなたの髪の色は、少しばかり目立ちますからね……』
***
頭が真っ二つに割れそうな痛みと、這い寄ってくる凍えで、ユエリアは瞼を持ち上げた。
二度、三度瞬きをしてみるが、そこは光が殺され闇の満ちた空間だった。頬には湿った土の感触がある。
体が重い原因の一つは、全身水浸しだからだろう。髪の染め粉は完全に落ちてしまっているはずだ。
(どこなんだろう、ここは)
腕で体を支えて起き上がるのがひどく億劫だった。かび臭い空気を深く吸うと、突如激しい喉の痛みに襲われる。耐えられずに咳き込むと、生理的な涙が浮かんだ。
(あたし、あの男に殺されかけたんだ……)
激痛と共に屈辱的な記憶が蘇ってくる。あの男、デュリオンこそが彼女の両親を殺した本人だったのだ。
ユエリアは地面に爪を立てた。土は堅く、表面が削れただけだった。
首を絞められた辺りから記憶が曖昧になっている。
「誰か知らないけど、目が覚めたみたいだね」
空間の奥の方から、聞き覚えのない少年らしき声が聞こえた。
徐々に暗闇に慣れてきたユエリアは、四つん這いになり手探りで前に進む。指先に何か堅く冷たいものに触れた。
腕は出せるし、握ることはできるが、そこから抜け出すことはできない。――鉄格子だ。
ユエリアはため息を吐いて尋ねた。
「あなた、誰? ここがどこだか知ってるの?」
「ぼくはティーオ。ここは《緑樹の城》の地下牢だよ。えっと……女のひと、だよね?」
地下牢。告げられた事実に、ああそうなのか、と諦めにも似た感情で支配される。
「ねー、無視しないでよ!」
「あ、ごめんなさい……あたしはユエリアよ」
「ここに入れられたってことは、おねーさんのお父さんか恋人さんが、お城の兵士になったの?」
「兵士?」
少年の一見無邪気な問いに、ユエリアは怒りも絶望も忘れてそう聞いた。
「違うの? だってぼくたちはみんな……」
「やめときな、ティーオ」
ティーオを遮って、新たな声がねじ込まれた。疲れきったそれは、低く擦れているが女のものだ。
ユエリアは鉄格子に顔を近付ける。視力が闇に慣れてきた今なら微かに見える。
ユエリアが囚われている牢の斜向かい。そこにティーオらしき少年が鉄格子の向こうに座っているのが分かった。
彼以外の人影も十人以上はある。恐らくもっといるはずだ。
天井から、一滴の雫がたれてきた。長い間水滴が落ち続けているのだろう。至るところに、水滴による水溜まりができている。
それにしても暗い。灯りが一つもないからだ。翠髪だとしても向こうからは分からないのかも知れない。
(あたしは『異端人』として捕まった。ティーオ達は、どうしてこんな場所に)
ユエリアは寒さに身を震わせながら問う。
「ねぇティーオ。城の兵士ってどういうこと? あなた、何か悪いことでもしてここにいるの?」
すると今度はティーオではなく、荒々しい女の声が返ってきた。
「そんなわけあるかい! 私らは兵士……旦那達の人質さ! ったく、何も知らないんだね。こっちは気が滅入ってんだ。静かにしとくれ」
「人質、って……」
「ああ、そうさ! なんでも王子様が独断で『異端狩り』に行ったそうじゃないか。おかげでデュリオンとかいう奴が今じゃデカイ顔してるんだって? 王子様は帰ってこないし……きっと《森の王》に喰われちまったんだ。それか、異端人に殺されちまったのかな……。ああ恐ろしい!」
わめくように女はそう言った。水溜まりへ、高く透明な音を生んで水滴が落ちていく。
体の底から凍えていたユエリアは、女のあんまりな暴言に、かっとして次に喉の奥が熱く熱く締めつけられた。
下唇を噛み締めて、ぐっと涙をこらえる。 いつまでも泣いているわけにはいかないのだ。
ユエリアは上ずりそうになるのを必死に制して、一言叫ぶ。
「クルス……王子は生きているわ!」
「嘘はおやめ! 慰めなんていらないんだよ!」
「本当よっ!」
喉が痛い。首を絞められたから痛いのか。泣きたいから痛いのか。
ティーオの静かな声が地下牢に響く。
「王子様はちゃんと生きてるんだ?」
「……嘘じゃないわ」
しばしの沈黙を経て、少年ははっきりと告げる。
「わかった。ぼくはおねーさんを信じるよ」
彼はユエリアに向かって笑みをつくる。その気配が何となくユエリアには伝わった。
ティーオがもしユエリアの正体を知った時、一体どう思うだろうか。やはり疎まれるのだろうか。
少年の単純な言葉に重みを感じて、彼女は自分を抱きしめる。
(なんとかして、あの人達をここから出してあげられないかしら)
城の兵士達の人質にされている、ということは、兵士達は強制されている可能性が高い。
彼らが王族の命令に従えなかったのも、人質を盾に取られていたなら、仕方のないことかも知れない。
また一つの雫が地面に吸い込まれていく。一定の間隔を空けて降ってくるそれを、ユエリアはぼんやりと見つめ続けた。
(城の下にあるのに雨漏りなんて……)
彼女は改めて地下牢と呼ばれる場所を見渡した。鉄格子以外は、床も壁も天井も、黒々とした土でできている。
あまり時間をかけずに造られたのかも知れない。
そもそもデュリオンの行いは、国王に認められているのか。
(こんな非道なやり方、許されないわ)
彼女は翠の瞳をすっと細く険しくした。じめじめとした床を撫でる。
ユエリアは久しい感覚に「あっ」と声を上げた。
「おねーさん? どうしたの?」
「ティーオ、一つだけ聞かせて」
「うん?」
小さく、本当に小さく囁いてくるものがあった。
「《緑樹の城》の意味を教えて」
「なんだ、そんなこと? 簡単だよ、お城のお庭には、緑がいっぱいあるってこと!」
鉄格子の奥で少年が両手を真横にぴんと伸ばしている。
「緑……そう、よく解ったわ。ありがとう」
なるほど、植物に溢れているということだろう。でなければ、聞こえてくるはずがないのだ。大地の声が。
天井が抱えている幾つもの水滴。これは単なる雨漏りではない。
木々や草花が、その根に蓄えた水を土に染み込ませているのだ。この間の嵐でより多くの水を吸ったのなら、尚更。
(ここは城の真下なんかじゃない……だったら)
自分にもできることが、ある。
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