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未来に踏み出すために 03
急いで宿屋に戻り、ミシェーナとロッダに安心を与えたかった。だが、ユエリアをなるべく目立たせないようにする方が重要だ。
人の目につきにくい細い道や、日陰の多い道を選んだ結果、宿屋の近くまで帰ってきた時には陽が今まさに沈もうとしていた。
クルスは隣で荒い息使いをしているユエリアを見下ろした。普段から日課で森の中を歩いている彼女だが、森と王都は空気も違えば何もかもが異なる。
硬い石畳は足に余計に負担をかけてしまう。ユエリアの額に浮かぶ玉のような汗は、《陽月》が《涙月》より気温の高い季節であることよりも、慣れない人の群れによるものだろう。
何よりも今の彼女には『自分が翠髪をもつ者』だと知られてしまった圧力がかかっている。
いくら覚悟をしていたからとはいえ、あのように大勢の前で晒された。
それでも。
彼女はもう一度立ち上がった。彼女の意志を支えたい。
だが、果たして自分にそんな力があるのだろうか。
クルスは小さくかぶりを振って、ほんの一瞬忍び寄ってきた思考を打ち消した。
(自分を信じられない者が、どうしてひとを支えられる?)
自然と背筋が伸びる。繋ぎ続けていたユエリアの手を、想いを込めて握り直す。
複雑な表情でちらちらと彼を盗み見てくる彼女に、クルスは苦笑した。
次の角を曲がればロッダの宿屋だ。しかしクルスは眉をひそめて立ち止まる。
この辺りは王都の中でも《外側の街》だ。《内側の街》よりも道は雑然としているし、たとえ豊穣祭の最中であっても人通りはそう多くない。
耳を澄ますまでもなかった。人の気配が、多すぎる。
彼は角に身を寄せて、宿屋に面する道を覗いた。
十人、いや、十五人は確認できるだろう。屈強な体躯をした男達が、宿屋を取り囲むようにして並んでいる。
誰もが紺碧の制服と肘上までの白い手袋を身につけていた。
(城の兵士達だ。何故わざわざこのような場所に……?)
よく知った声が辺りに響き渡ったのは、クルスが胸中で呟いた直後だった。
「だから、私たちは知らないと言っているでしょ!? ……嫌よっ、離して!」
止める間もなかった。
傍らで同じように身をひそめていたユエリアが飛び出していく。髪を覆っていた上衣がずれ、空へ舞った。
「ミシェーナ!?」
「ユエ!? 来ちゃだめ! 逃げて!」
腕を縄で縛られたミシェーナが、クルス達からは死角で見えずにいた男へ突進した。
その男の足元には、ロッダが地に俯せていた。頭部から血を流している。
男の夜色の髪が、宵闇と溶け合う。男は鼻で笑うとミシェーナの髪をわしづかみ、ほこりを払いのけるがごとく邪険に地面へ投げ捨てた。
彼女は石畳の上を二回転し、咳き込むとそれきり動かなくなる。
ユエリアはミシェーナのもとに駆け寄ると、膝をついて彼女の体を守るように抱き寄せた。
「ミシェーナ、ミシェーナ! こんなっ……あんた、一体何のつもり!?」
男は平然と返す。
「貴様こそどういうつもりだ? 異端人がのこのこと王都へ。おぞましい大地の娘が」
誰かが息をのむ。
兵士の内一人が抜剣したのを機会に、次々と鈍い銀が姿を現す。
男のいかつい腕がユエリアに伸びる。クルスは彼女の前に躍り出ると、男の腕をはねのけた。
「――デュリオン。お前の言葉をお前に返そう。何故ここにいる?」
男――デュリオンは、クルスの存在に今ごろ気付いたとでも言いたげに口端をつり上げる。
灰がかった翠の瞳が、獲物を得た肉食獣と似た輝きをちらつかせた。
「これはこれは。親愛なるクルーレンス・デュオス=アルテルド・ウェン・ガーディン王子ではありませんか。今までどこでお遊びになられていたか。……ああ、そこの異端人に操られていたんですね。お可哀想に」
「ふざけるな!」
わざとらしく語るデュリオンの言葉を一蹴する。クルスは宿屋を取り囲む兵士達へ剣呑なまなざしを送った。
「お前達もだ。今すぐ剣をおさめて去れ。命令だ」
兵士達の間に動揺が走る。張り詰めた空気は祭にそぐわぬ緊張感で満ちていた。
クルスの放つ鋭い雰囲気に圧されてか、一人、二人と剣をおさめていく。
デュリオンは嘲笑った。
「何を怖気づいている。今の王子はそこの異端人に操られているだけだ。剣をおさめるなど愚行! さぁ、異端人を捕らえ、王子をお助けするのだ!」
再び兵士達がじりじりとクルスとユエリアを囲み始める。十五の剣は残酷な美しさで二人を徐々に追い詰めた。
(剣さえあれば……)
クルスは自分の甘さに舌打ちしそうになる。
兵士達の顔と名前はほぼ完璧に頭に入っている。しかしこの場にいる兵士達には全く見覚えがなかった。これもデュリオンの算段か。
デュリオンは猫なで声で言う。
「クルーレンス王子。あなたが『異端狩り』へ行くとおっしゃられた時、私は感動して震えが止まらなかったのですよ。昔から異端人に対して慈悲深かったあなたが、ついに心を固められたと。……しかしやっとお戻りになられたかと思えば、そのような忌まわしい娘など連れて」
ユエリアがびくりと体を震わせる。壮年の男はさらに続けた。
「覚えていらっしゃいますか? 『あの時』私は示したはずだ。異端人は構わず殺してしまうように、と。……そういえば、一人はちょうどそこの娘によく似た、翠髪の女でしたね」
脳裏に深く刻まれた光景が閃く。
嵐の夜、少年と少女が出会った始まりの惨劇を。
「ぁああああああああああ!!」
ユエリアが吠えた。激情のままにデュリオンへ、あまりにも無力な手で掴みかかる。
デュリオンは動かない。ユエリアを追うようにして剣を突き出した兵士を、クルスが捨て身で防ぐ。
圧倒的に不利な状況を変えられるはずもなく、クルスは別の兵士二人に押さえ込まれてしまった。
かつてクルスの側近だった男。彼は片手でいとも容易くユエリアの両腕を掴むと、彼女の細い首にもう片方の手まで絡めていく。
そのままデュリオンはユエリアを体ごと宙へつり上げた。彼女の唇から苦しげな息が漏れる。
「ユエリアァ! 止めろデュリオン! それ以上の罪を犯す気か!?」
二人の兵士にがんじがらめにされながらも、クルスはデュリオンに訴えかけた。
ユエリアが唯一自由な足をばたつかせ、男の体を蹴りつける。鍛え上げられた体躯をしたデュリオンには、虫の抵抗に等しいのだろう。一つも表情を変えずに彼女の首をさらに絞めた。
「……っ、あ……」
ユエリアの瞳が虚ろな影に覆われていく。
囚われた四肢を振り解こうと、クルスは力の限り身を捩る。しかし三人、四人と彼を押さえ込む兵士が増える一方だった。
「やめろぉぉぉ!!」
傷だらけの体の、どこに力が残っていたのだろうか。
デュリオンの足元で倒れていたはずのロッダが、男の足にしがみつく。
転がっていた鋭利な石の破片を握り、デュリオンの大腿へと突き立てた。
「鼠が、生意気な」
「……が、ぁ」
デュリオンは眉を寄せ、ロッダを乱暴に蹴り飛ばした。
もがいていたユエリアの体が、だらりと力を失っていく。彼女の名を叫ぼうとしたクルスは「お許しください」という兵士の言葉と共に意識が白く弾けた。
完全に気を失う前。
クルスはデュリオンの遥か後方で暗い笑みを湛える、猫背でひょろりとした男を見た。
(あれは……昼間の……)
視界は闇の底へ。
「王子と異端人は城へ連れていけ。……そこの男と女は放っておけばいい」
最後まで残った聴覚が、無惨にも男の声を伝えてくる。
そして、すべてが途絶えた。
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