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未来に踏み出すために 02  









 馴染んでいない染め粉は色が落ちやすい。
 喧騒が聞こえなくなるまで彼らは走り続けた。道幅が細くなるほどに空気はほこり臭くなる。
 クルスは自分の上衣をユエリアに被らせると、追ってくる者がいないことを確認して歩調を緩めた。

 ユエリアの手の冷たさに驚く。まるで、ずっと氷水につけていたかのようだ。その手が、するりと彼の手の内から抜け落ちた。
 困惑して振り返る。
 彼女は虚ろに立ち尽くしていた。

「わかっていたわ……こんな風になるかもしれないことくらい、わかってたの」

 真昼だというのに、路地は民家の間に洗濯物が干されているため薄暗い。
 彼女の瞳に浮かぶ諦めの色。クルスは奥歯を噛み締める。

「あなたのせいじゃない」

「どこが!? あたしが……っ……異端人、だからでしょう」

「違う! 僕が軽率すぎました。あなたはあなただ、ユエリア。豊穣祭が終わるまではと考えていましたが……クルーレンス・デュオス=アルテルド・ウェン・ガーディン。第一王位継承者です。この意味が、あなたならわかるはずだ」

 ユエリアは一歩退いた。しかし彼女の背はすぐに壁へ押しつけられる。
 これ以上後退できないと知ると、彼女は俯く。潤んだ翠の瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだった。

「あなたが望めば、僕はこの国の決まり事さえねじ曲げることができますよ。そう、無理矢理にでも」

「――やめて! そんなことは!」

 手負いの獣が食らいついてくるように、ユエリアはクルスの胸ぐらを爪を立てて掴んだ。
 クルスは両手で彼女の手を包み込む。そうすると彼女はひどく狼狽した。

「そうでしょうね。ユエリアならそう言うと思いました。だってあなたは、未来に踏み出すために王都へ来たんでしょう?」

 きつく結ばれていた彼女の唇が、ぐにゃりと歪んでいく。一滴、二滴と石畳へ吸い込まれていく涙には、どれほどの想いが詰まっているのだろう。
 未だうまく甘えることを知らないユエリアを抱き寄せて。
 ああ、小さいな、と。彼女が自分の胸元までしか背がないことに、改めてそう思った。

 『あの場所』へ戻ってしまえば、クルスはこうして彼女を傍で支えることは難しくなる。だからこそ、記憶を取り戻した際に「一部だけ」と嘘をついたのだ。

「……ない」

 嗚咽混じりの声は弱々しく、クルスは彼女の唇に耳を寄せた。

「……あ、諦めたく、ない……! でも怖いの。王都のひと達が、今は怖い。ねぇ、クルスはどうしてあたしが怖くないの?」

「ひとのために心を砕くことができるあなたが、僕は愛しい」

 彼女は絶句して体を強ばらせた。解すように、クルスはユエリアの髪を梳く。
 路地の向こう側から、人々の様々に色付いた声が響いてくる。対して路地は暗く湿気に満ちている。
 とん、と胸に軽い衝撃が伝わった。ユエリアが彼を突き放したのだ。

「あたしがあんたを助けたから? ……そんなの、誰だってするわ」

「憎悪を抱く相手だと気付いても、ですか?」

「それは……」

 クルスはやわらかく微笑んでみせた。それは親しい者と交わす笑みと似ているが、ほんの少しだけ違う特別なもの。

「あなたはいつも命に対して真摯でした。例えそれが殺したいと思う人間でも。どんなに儚い命だとしても、見捨てなかった。僕はその清らかな心に寄り添っていたい。だからここにいます」

 光が差し込まずとも、ユエリアの頬や耳が朱に染まっていくのが分かる。
 彼は気付かないふりをして、彼女へ手を差し出す。
 いつか戻らねばならない日が迫っていた。もとの、クルーレンス・デュオス=アルテルド・ウェン・ガーディンという一人の王族へと。

 ユエリアの心に寄り添っていたい。だが王族には国を栄えさせ、民を守るという責任がある。そして彼女はきっと、《大地の朋》として西の森と共に在ることを望むだろう。
 ただの罪滅ぼしだと言われるかも知れない。都合の良い偽善者だと罵られるかも知れない。だがそれは他人が勝手に想像するものだ。
 ユエリアを愛しいと思う心は変わらない。
 クルスの心が自由であるように、彼女を縛る鎖からユエリアが解放されるのであれば。クルスはその鎖を断ち切ろうと思った。
 躊躇いがちに重ねてきたユエリアの手を、離れてしまわないようしっかりと握る。

「さぁ、行きましょう。ミシェーナさんとロッダさんが宿屋で待っているはずです。それから、約束を果たせなくてすみません」

「約束?」

「今日はあなたに海を見せる、と」

「……いいの。ありがとう。またいつか、誰かに連れて行ってもらえるようお願いしてみるわ」

 歩きだして、路地を抜ける。照りつける陽射しの眩しさ。
 ユエリアの目は泣いた所為で腫れていた。憂いが秘められた瞳と、ほんのりと朱が残る頬を彩る笑みは危うい儚さがある。
 クルスの内側で燻っている感情に新たな熱が生まれる。

「僕が連れて行ってあげますよ」

「でも、」

「嫌ですか?」

「そんなことは、ないけど」

 彼女の髪がきちんと上衣で覆われていることを確かめると、クルスはなるべく壁ぎわにユエリアを歩かせた。

「それなら何も問題ないですね」