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未来に踏み出すために 01
もう随分と以前のことのように感じる。
どこからか流れてくるやさしげな声が意識を揺さ振っていた。頬に触れたそよ風に、甘やかな香り。
すぐに消えてしまったそれが名残惜しくて、つられるように目が覚める。
初めて彼女の姿が視界に飛びこんできたときの感情を忘れない。
すべての光を受け止める若草色の髪。どこか影を落とした翠の瞳は、目を覚ました彼に気付いた一瞬だけ揺れていた。
陽に透ける肌は白すぎる程で、薄紅く色付いた頬と唇がやけに鮮やかだった。
疼く頭の痛みをやり過ごし、耳の奥でうるさく鳴る雑音には蓋をした。
彼女への『恩返し』というのは、今思えば薄っぺらな口実に過ぎなかったのかも知れない。
彼女は知らないだろう。
この願いを。
***
陽も昇りきらぬ早朝、ユエリア達四人は王都の北東部にある港を目指して進んでいた。ユエリアに海を見せるためだ。
露店商人達は忙しなく店の準備を始めだす。芸人達は自分達が出演する出し物の宣伝に精をだしていた。
これから籠もるだろう熱気に備えてか、女達は井戸水を石畳の上にまいていく。水しぶきは陽の光に穏やかに瞬いた。
靴で水を跳ねさせながら楽しそうに駆けていくのは、洗濯物籠を頭にのせた子どもだ。
クルスはロッダと並んでユエリアとミシェーナ二人の前を歩く。数日前は目も合わせてこなかったユエリアだが、何故か今日は気配が容易く読み取れる。常に視線を背に感じるのだ。
途中、休憩代わりに昼食をとり、再び歩き始める。隣のロッダがつまらなさそうに唇を尖らせていた。
「クルスさんは、いいよねぇ」
「何がですか?」
「俺、昨日ユエリアにフラれちゃったよ」
思わず間抜けな声が出そうになる。クルスは何とかそれを堪えたが、口は開いたままだった。次の瞬間彼はロッダに笑い飛ばされていた。
「あははははっ! こんなに効果あるとは思わなかった! あは、あははは!」
「……。それで、ふられた、というのは?」
「そんなコワイ顔しないでクダサイ……。いやまぁさ、結局ユエリアにとって俺は『幼なじみの兄』でしかなかったってこと」
今一話の筋が見えず、クルスは眉根を寄せた。
その時後方で、小気味良い音が清々しく響いた。人々のざわめきが波紋のように広がっていく。何事かと振り返れば、ユエリアとミシェーナの姿が見えない。否、見えないのではなく、隠れているのだ。
筋肉質で背の高い男と、猫背でひょろりとした男。どちらもクルスとそう歳は変わらないだろう。派手な服装に身を包んでいる。その二人に絡まれているらしい。
人通りの少ない道を選んだつもりだったが、陽が高くにある今、すでに人々で溢れている。
たった十歩の距離の、何と遠いことか。クルスが道を開き、あと三歩というところで、男の一人が野太い声をあげた。
「せっかく俺らが遊んでやるって言ってんのによぉ……何してくれんだこの女! ああ!?」
「断るのが面倒だったから殴ってあげたまでよ! 理解したならそこをどきなさい」
意外にも男と対峙していたのはユエリアだ。ミシェーナは彼女を止めようとユエリアの腕をぐいぐいと引っ張っている。まなじりを吊り上げて激昂しているユエリアには無意味そうだ。
筋肉質で背の高い男は、顔面を怒りか、はたまた羞恥心からか、燃えるように真っ赤にしている。男は腕を勢い良く振り上げた。
ユエリアは尚も男を睨み据えている。無駄に筋肉のついた腕。まともにくらえば華奢な彼女にはひとたまりもないはずだ。
「僕の連れです。気安く触れないでいただきたい」
ありったけの力が込められた拳を、しかしクルスは難なく掴みひねりあげる。
体躯はクルスの倍はある男が、聞くに耐えないような情けない悲鳴を放った。いつの間にかできていた野次馬があちらこちらから、はやしたててくる。
今やクルスとユエリア、ミシェーナは目前の男二人と共に完全な見せ物状態だ。
彼らを中心に円形の人壁ができあがっている。ロッダだけは、ちゃっかりとユエリアとミシェーナの背後の方で人に埋もれていた。
ロッダはクルスと目が合うと、後は任せたと言わんばかりに歯を見せてニカッと笑った。おまけに手まで振ってくる。
(あまり目立つわけにはいかなかったが……仕方ないか)
もがき始めた男が煩わしい。クルスが握っていた腕にさらに力を込めてやると、男のもう片方の腕がクルスに向かい襲いかかってくる。
必要最小限の動きでかわす。反動で前に傾いだ男の腕を地面へ引きつけ、離す。
勢いのままに。
クルスは男の背後に回り込み、急所に手刀を叩き入れる。
男が白目をむいて石畳の上に転がった瞬間、囲んでいた野次馬からまたもや割れんばかりの歓声が飛び交った。
それらを無視して、クルスはもう一人の猫背でひょろりとした男に向き直った。男はもともと丸まっていた背をさらに縮こまらせている。
クルスは優雅に微笑んだ。
「あなたはどうします?」
「……あ、うわあああああ!」
ようやく我に返ったのだろう。猫背の男は叫びながらクルスの脇を走り抜ける。
なりふり構っていない所為か、走り方はでたらめだ。男の動きを予測できずにいたユエリアが、避けきれずに突き飛ばされる。
「ユエリア!」
クルスが手を伸ばすが間に合わない。彼女は一番前列にいた同じ年頃の娘共々、石畳に倒れ伏した。
巻き込まれた娘の持っていた水瓶が、硬質な音をたてて地に転がる。
おかげで辺りは水浸しだった。もちろん彼女達も例外ではない。
(――まずい!)
のろのろと起き上がるユエリアに、クルスは手を差し伸べる。
「ユエリア、手を!」
彼の声をかき消す甲高い悲鳴が空気を裂いた。
「こ、この女――異端人よ!」
ユエリアが慌てて濡れた自分の髪を探る。はらりと頬に落ちてきた横髪の色は、茶色とは程遠い若草色だ。
どよめきが一斉に沸き起こる。
「本当だ、なんておぞましい色なんだ……」
「早く離れないと呪われるわ!」
「この豊穣祭をぶち壊しにきやがったんだ!」
幾百もの瞳が『異端人』のユエリアを貫き、傷つける。こうなってしまえばここで誤魔化すのは困難だ。
何よりも蒼白になって固まっているユエリアが真実を物語っている。
震えるユエリアの手を強引に引いて、クルスは人の壁へと駆け出した。不幸中の幸いか、人々は彼らの進む道をあけ始める。
『異端人』という存在を忌避しているのだ。
「クルスさん!?」
「宿屋で!」
ミシェーナの切羽詰まった声に、クルスは手短にそう叫んで細い路地に身を投じた。
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