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存在の証を 04
「忘れたわけじゃないんだよ、ユエリア」
そしてロッダはもう一度繰り返した。
「忘れたわけじゃない。ただ、彼らは『知らない』だけなんだ。俺はね、ユエリア。逃げたんだよ。大地の声が聞こえなかったからね」
「逃げた……?」
紺碧の夜空よりも、ロッダの顔色は暗い。それはすでにユエリアの知っている兄の表情ではなかった。
ロッダは彼女と向き合いながらも、瞳は遥か先を見据えているように思えた。
「そう。怖かったんだ。大地は一体、何をささやいているんだろう、って。聞こえない俺は、怖かったよ。だから俺はここに来たんだ、ユエリア。でももしかしたらさ、この王都は昔はそういうひと達の集落だったんじゃないかな。それがだんだん大きくなっちゃってさー。色んなことを、色んな知恵を編み出したんだよ。大地に頼らないために」
敷き詰められた石畳。王都を囲う堅固な石の壁。
「そしたら、そこで生まれる子って知らないんだよ。大地に頼る方法を。親は知ってほしくないと願う。だから彼らはこう教えるんだ。『翠髪の人間には近寄るな』……自分達の事情を、押しつけてるんだよ。結局ね。けど、俺はそのひと達の気持ちもわかる」
ただ、愕然と。ユエリアは瞬くことも忘れて、彼を見つめていた。
無意識に胸元で重ねていた手のひらが、冷たくなっていく。
「彼らは怖かっただけじゃない。羨ましくて、悔しかったんだ」
「……ロッダ兄さん、も?」
いつから、そう思っていたのだろう。彼はユエリアが幼い時に故郷の村を出て行った。血は繋がらないけれど兄と呼べる存在。
自分とミシェーナと、ロッダで。森を駆け、丘をめぐり、時にはけんかもしていた。けんかは主に彼ら兄妹が中心だった。仲直りをして欲しくて、ユエリアはよく二人に花冠を作っていた。
もう、すべてが手の届かない過去なのだろうか。
彼が会話に沈黙を挟むことは珍しい。ユエリアは立ち上がり、震える足を心の中で叱咤すると、思い切って階段を蹴った。
瞠目するロッダに構わず、ユエリアは兄の胸に文字通り飛び込んだ。
勢いをつけすぎて、ロッダ共々背後の壁に直撃する。
「イッタぁ……ゆ、ユエリア? 急になに」
「ねぇ、温かい?」
彼の背に腕をまわす。そうすると、服の上からでもお互いの間にごく小さな熱が生まれた。
自分からやったにも関わらず、顔が燃え尽きてしまいそうな気がした。ユエリアはロッダの肩に額を埋める。
絶えず吹き抜けていく風に、ロッダの匂いが混じっていく。どことなく故郷の花茶の匂いと似ている。
「あったかいっていうか……やわらかいっていうか……」
「何? よく聞こえないわ」
ロッダが戸惑うのも無理はないかも知れない。ユエリア自身でさえ、何故こんな真似をしているか不思議でならなかった。
以前のユエリアなら、きっと泣いて立ち尽くしていただけだ。
やがて彼女の背を、恐々とした手つきでロッダの腕が包んだ。彼の腕は昔と違い、細くても力強さがある。
「あたしとロッダ兄さんは、確かに違うわ。でもこうやって、温もりを伝えられる。感じることができる。同じ、ひとだから。……そう教わったの」
一瞬、彼の呼吸が止まる。訝しんで見上げると、大きな堅い手にふわりと頭を撫でられた。
ユエリアは懐かしく心地よい感触に思わず目を閉じる。
ロッダの吐息混じりの声がユエリアに染みる。
「それは、クルスさんだね」
素直に彼女は頷いた。
ロッダには宿屋に訪れた際に、クルスに関する事情を打ち明けてある。
「そっか。じゃあクルスさんは、ユエリアにとって大切なひとになったんだね」
「大切、なのかどうかわからない。……でも、」
憎しみの楔が解けたわけでは、ない。目の前で両親を殺された痛みは、彼女を中心から蝕んでいるから。
「大切に、したい。クルスはあたし達を知ろうとしてくれてる。あたしはひどいことばかりしたはずなのに」
言葉で彼の心を刺し、大地の力を借りて脅した。《森の王》に喰われてしまうよう仕向けた。眠りに、永遠を与えようとした。
それでもクルスは、ユエリアに正面から向き合ってくれる。
頭に置かれていた手の重みがなくなって、彼女はロッダを仰ぐ。
彼はユエリアの肩に両手をのせた。そして一歩分の距離をあけて、彼女を自分の身体から離した。
「あのさユエリア。俺は確かに大地の力が羨ましくて、ビビッたりもしてたけど、きみが俺にとって大切な女の子であることに変わりはないんだよ。だから……えーと、何て言ったらいいんだろう」
悩んでいる時の表情がミシェーナにそっくりで、ユエリアは密かに安堵する。自分の知らないロッダではなくなった気がしたからだ。
温かさが心の奥に広がる。それはまるで《陽月》のやわらかな午後の陽射しを浴びて眠っているような感覚だった。
「まぁ、何ていうかさ。汚いとか醜いとか、そーいうヤな気持ちだけに縛られなくても、いいんだって俺は思う」
「ロッダ兄さんは、ずいぶんと楽観的なのね」
「前向きと言ってほしいな」
「ふふ……ありがとう。とっても楽になれたわ」
駆け抜ける風は昼と違い冷やかさをはらんでいる。呼応するようにざわつく木々が存在しないことが、少しだけ寂しいと彼女は思った。
(やっぱりあたしは、クルスのことを簡単には許せないのかも知れない。でも、同じくらいに好ましいひとだってことを、感じているんだ)
結っていない髪が風に煽られる。髪を茶色に染めている所為か、妙に落ち着かなかった。
(……けど、クルスはどう思っているのかしら)
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