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存在の証を 03  









 ユエリア達はその夜ロッダの宿屋で談笑し、祭りに浮かれた人々も寝静まる頃になって、ようやくそれぞれが就寝の準備を始める。
 自分とミシェーナに与えられた部屋で、ユエリアは微かな衣擦れの音をたてて寝台から降りた。

 部屋の両端に寝台が一つずつ。向かいの寝台ではミシェーナが首だけこちらへ向けて、仰向けになって眠っている。
 毛布がずれて片足が寒そうだった。足音で彼女を起こしてしまわないよう、気配を消し、毛布を整えてやる。
 灯りがなくとも、窓から差し込む月光のおかげで、ぼんやりではあるが物をとらえることができる。

(眠れないなんて……どうして。こんなに疲れてるのに)

 場所が違うことや、緊張が解けないこと。理由なんてあげだせばキリがない。けれど。

(もし、この豊穣祭が終わったら――クルスは)

 鳥は空へ還る。木の枝で戯れるのは、ほんの一時のことだ。
 どんなに枝を伸ばしても。葉を繁らせようとも。花を咲き誇らせたとしても。大地に根を下ろしたものは、空の自由には適わない。

(水を、少しだけもらおう)

 そうすれば、多少は心も落ち着くだろう。
 蝶番をひねり、部屋を出る。二階の廊下は一本道のため、灯りが少なくてもなんとかなる。壁づたいにユエリアは階段を降りていった。
 階段の突き当たりは石壁で、左側に少し進むと食堂へと繋がる扉がある。そして食堂から漏れる灯りに気付いて、彼女はふと足を止めた。

(ロッダ兄さんと、クルス……?)

 今宿屋に居るのは彼らしかいない。このような夜も深い時分に、一体何を話しているのだろう。こそこそと耳をそば立てるのは背徳感がある。
 飲み水は食堂の水瓶に汲み置きされている。ユエリアはさっさと水をもらって寝てしまおうと考えた。だが次の言葉に、再び足は縫い止められる。

「ねぇ。クルスさんてさ、結構イイお家柄のひとでしょ?」

「……さぁ。どうなんでしょうね」

 クルスが小さく苦笑する気配が伝わってくる。

「食事の時とか。食器の音、一つも立てたことないよね。動作もだけど洗練されてる」

「よく、見ているんですね?」

「まーねー。あとは、クルスさんの目。紫ってさ、この国じゃすっごい珍しいんだよ。クルスさんの場合は、フードとか被っちゃうとよくわからないんだけどさ。今ははっきりしてるね。紫だ。だからクルスさんは……」

 声が聞こえづらい。ユエリアは自分でも気付かぬまま、ずいぶんと身を乗り出していた。
 ロッダがクルスに向かって何事か話しかけ、それに対してクルスは無言であった。否、頷いただけなのかも知れない。

(これ以上聞くわけにはいかない。一度部屋に戻ろう)

 そう思い直して石壁から手を離し、そろりと後ずさった時だった。傷んだ床が思いの外大きく鳴った。

 食堂の椅子が引かれる音がする。クルスか、ロッダか。どちらかが音を訝しんで席をたったのだろう。階段を急いで上ろうと足をかけたところで、後ろから肩を掴まれた。

「……あ」

「しー、大丈夫だから」

 ユエリアにもやっと聞こえるかという程の大きさで、ロッダは囁く。
 彼は食堂へ顔だけ出すと、いつもの調子で言った。

「何か気になるから、俺ちょっと外見てくるよー。クルスさんは先に寝てて!」

「僕も行きましょうか?」

「だいじょーぶ、平気だよ」

「そうですか? ではいただいたお茶を飲んだらそうしますね」

 どうやら彼は、ユエリアが盗み聞きをしていたことはクルスに黙っていてくれるようだった。
 戸惑う彼女の腕を、ロッダは優しく引いていく。彼は宿屋の裏口へ出ると、ユエリアを振り返った。

「どうしたの? 眠れなかった?」

「水をもらおうと思ったの。あっ……あの、ごめんなさい。黙ってひとの話を、聞いて」

「俺は別に構わないよ。てか、そんなことよりさ」

 彼は繋いでいたユエリアの手首を親指で撫でた。予期せぬ感覚にユエリアは一瞬怯む。

「ユエリアは、綺麗になったね」

 昔と同じ兄の笑顔だと思った。けれどそこに、刹那の憂いを感じたのは。

「ありがとう。改めて言われると、なにか変ね。ロッダ兄さんも背が伸びたと思うわ。前はそんなに変わらなかったのに」

「どれだけ昔のこと言ってんの。ま、そんだけ会ってないってことだよねぇ。……こっち座りなよ」

 ロッダが手招きをしつつ、ユエリアを裏口の階段に座るよう促す。話をするのであれば、座った方がゆっくりと話せる。彼女は素直に従った。
 彼もユエリアから手を離し、斜向かいの木箱に腰を下ろすと、片足だけ立ててそこに腕をのせた。

 祭りの余韻が僅かに残っていることを示すように、路地の先には松明らしき灯りがゆらゆらと揺れて見える。
 裏口の路地は人が三人並んで歩くと窮屈に感じるのではないだろうか。
 向かいは民家で、土台は石造りだが家の骨となる部分は木造らしい。壁は明るめの灰色の塗料で統一されている。屋根はどの家も青だ。
 昼間からユエリアは感じていたが、王都にはむき出しの土がほとんどなかった。

 ロッダがつり気味の目を細める。

「ユエリアは、もう王都に来ないと思ってたよ」

「どうして?」

「だって俺、毎回豊穣祭の前には《手紙鳥》飛ばして呼んでんのに。ぜーんぜん帰ってくるのは『ごめんなさい』ばっかりでさ……ちょ、笑うとかヒドイって」

 《手紙鳥》は、《森の王》を回避する土鈴をつけた鳥だ。一度飛ばせば、訓練して覚えた場所まで飛んでいくことができる。
 ユエリアは彼の様子があまりにも可笑しくて、つい手で口元を隠した。ロッダは彼女より四つも年かさのわりに、仕草や言動が不相応なのだ。

 ふいに、ロッダが諦観を交えた渋い笑みを刻む。

「ホントに、ユエリアは変わったね」

「変わってないわ」

「変わったよ。きみがそんな風に笑うなんて、さ。それに王都に来たのも、何か考えがあるからでしょ?」

「……うん。あたし、外の世界を見てみたいと思ったの。それに、どうしてあたし達と王都のひと達はこんなにも距離があるんだろう、って。ねぇ、だってずっと昔はあたし達だけじゃなくて、みんな大地の声が聞こえていたんでしょう? でもどうして? 何故みんな、そんな大切なことを忘れてしまったの?」

 抑制できない感情が溢れる。胸の奥から、焦げてしまいそうな熱い波が押し寄せる。
 ユエリアは唇を噛んで、涙が零れそうになるのを防ぐために夜空を仰いだ。壁に阻まれた狭い空間でも、尚も星達は煌めきを伝え続ける。
 しかしその輝きも、祭りの熱気でどこかぼやけて見えた。