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存在の証を 02  









***



「――デュリオン様」

 彼は今し方眺めていた窓に背を向け、声の方へ振り返る。

「どうした」

「例の件についてご報告が」

「言え」

 城内の、灯りのない回廊。普段ならば闇に閉ざされたそこは、しかし閃く稲光で、時折デュリオンの半身を照らしだしていた。
 天の獣は低く唸り続ける。怯えた空は激しく泣き、留まることはない。

「豊穣祭の二日目に……到着するようです。交渉は誰に行かせましょう?」

「私が行く」

 普段感情を見せない部下が、僅かに眉を動かす。

「その方が早い」

「……仰せのままに。あちらにもそのように伝えて参りましょう」

 礼をして、部下は踵を返す。その姿はすぐに暗闇に紛れ、見えなくなる。完全に気配が消えても、デュリオンは獰猛な瞳のまま。
 彼は誰も近寄らぬこの回廊によく訪れた。冷徹な石壁に背を預ける。
 夜色の髪をデュリオンは煩わしげに掻き上げた。灰がかった翠の瞳は雷光を跳ね返す。
 鍛えあげられた体躯は、壮年の男に威圧の鎧を纏わせる。

「忘れるものか」

 窓に硝子はない。もともとここは、城の中でも監視用の塔だ。
 叩きつけるような雨が降り注いでくる。濡れてしまうことは厭わない。彼は獲物を定めた猛禽類のごとく鋭く、窓の外を見据える。
 西の森。異端人――憎き大地の一族の住まう森。
 暗い嘲笑は、彼が捨てたものと引き替えに手に入れたものだ。
 夜が明け、嵐が過ぎ去るまで、デュリオンはそこにいた。



***



 甘く見ていたのかも知れない。
 ユエリアは込み上げてくる吐き気を何とかやり過ごしながら、同時に溢れる音や匂いや、色彩、そして人々の熱気を、身体中で飲み下していた。

 王都の硬い石畳を歩く。彼女の右隣にはクルス、左隣にはミシェーナが、まるで護衛のように並んでいた。
 結局最後まで心配したミシェーナが、自分も連れていけと言い張ったのだ。
 ユエリアとしては申し訳ないと思う反面、素直に嬉しかった。彼女が傍に居てくれるだけで心強い。

 導きの鈴がないため、森を抜けるのには二晩かかった。《森の王》の領域さえ侵さなければ、呆気ないほど簡単に王都にたどり着くことが出来るのだ。
 それを、王都に住む人間は知らない。だからユエリア達が《森の王》を操っているのだと、彼らは誤解しているらしい。クルスにそう話を聞いた時は、さすがに眩暈がした。

「少し休みますか、ユエリア」

「平気。……ところで、あれは何?」

 彼女は遠くにそびえる塔を指さした。石造りのそれは、豪風が襲ってもびくともしなさそうだった。
 頂上には周りの民家と同じ青色の、小さな屋根が付いている。その下に吊り下げられて見えるのは、おそらく鐘だろう。

「あれは《時知らせの鐘》ですよ。定期的に鳴らすことで、一日の時の流れを把握しやすくしているんです」

「ふうん……登るのが面倒そうね」

 ユエリアが言うと、ミシェーナは肩を震わせて笑いを堪える。けれどユエリアは、とにかく辺りの景色を瞳に焼き付けようと必死で、彼女に構わず「あれは」とまた別のものを指し示す。クルスもその都度、丁寧な説明をしてくれた。

 ユエリアは街というものを初めて目にした。静かな空間であり続ける村と違い、王都は煩いと彼女は思った。
 果実や色鮮やかな衣装や、きらびやかな貴金属。布で陽除けを施しただけの簡素な露店では、様々な土産物が顔を揃えていた。
 隙間なく通りに立ち並ぶ露店から、売り子達の威勢良い声が飛び交っている。

 嵐が過ぎたばかりの《陽月》は、このように汗がだらだらと流れる季節ではない。ユエリアはむっとする暑さにため息を吐いた。
 昼はだいぶ過ぎているというのに、圧倒的な人の数。二歩進めば他人にぶつかりそうになる。
 彼女はその度、クルスに巧みに誘導されていた。

「三日目の最終日は、もっと多くなりますよ」

「今でもこんなにいるのに?」

「はい。外の大陸から船でやってくるひともいますからね」

「外の、大陸……」

 呟いたユエリアに、クルスは微かだが困った風に笑んだ、ように見えた。

「気になりますか?」

 ここ、ガーディン王国は島国だ。ユエリアにとって王都はこんなにも広かった。いや、実際には西を覆う森の方が広大なのだろう。しかし彼女の世界が広がったのは、王都だ。
 ユエリアはしばし逡巡して、親友に問う。

「ミシェーナはどう思う? 外のこと」

「外の大陸って、フォルスニア大陸が一番近いと言うけど……。でも、私はずっとこの国にいたいわよ。外なんて何があるか分からないじゃないの。そういうあんたは?」

 ユエリアは躊躇わずに答えた。

「見てみたい。外の世界を。きっとこの国よりも、ずっと広くて、知らないことがたくさんあるんでしょうね」

 そこにはまた違う人々や、生き物や、彼女の知らない草花が在るのだろう。もしも、こことは違う彼の大陸に生まれていたとしたら――。
 歩みを緩めていたクルスが立ち止まった。下ろしていた右手をすくい上げられる。彼は穏やかな瞳に、傾いだ陽差しを映し込んで。

「ユエリア、あなたが……」

 街中に《時知らせの鐘》の音が響き始める。
 人々が次々と空を仰ぐ。ユエリアも反響する音に誘われて見上げる。人々の熱をそのまま溶かした、紅の空を。
 ぐっと、ユエリアの指先を包む彼の手に力が籠もった。驚いて彼女はクルスに向き直る。

「ユエリア。明日は海を見に行きませんか。港近くは、中心部とはまた違う雰囲気がありますから」

 どこか寂しそうな瞳だった。だからユエリアは、ついその紫に吸い寄せられてしまう。
 胸がどうしようもなく切なく痛んで、彼女は誤魔化すように俯いた。

「海、も見てみたいわ。泉よりも青くて、川よりも深いって、本当に?」

「本当ですよ。海は世界を隔ててしまうほどですからね」

 左隣から、ミシェーナがユエリアの腕に抱きついてくる。そして彼女は拗ねた子どもが、それでも親に縋るような口調で言った。

「ねぇ、もうじき日が沈むから、暗くならないうちにほら。早く兄さんの宿に行って休んでしまいましょうよ。ユエも疲れてるでしょ?」

 ミシェーナの兄である、ロッダの営む宿屋にたどり着いた時には、ユエリアは全身で鉛を抱えている気分だった。
 張り詰めていた意識が少しだが解れたのは、王都の中でも比較的人通りが少ないからだろう。
 クルスが宿屋の扉を軽く叩くと、陽気な声が足音と共に近づいてくるのが分かった。

「いやー、スミマセンね。お客さん。ウチは豊穣祭終わるまで宿はやってな……え、クルスさん?」

「私もいるわよ、兄さん」

 クルスの背後からひょっこりと顔を出して、ミシェーナは「いつぶりかしらね」と手を振った。

「ミー! ミーじゃないか! しばらく見ないうちに、立派な大人になったんだね……!」

「もう、ミー、ミーって猫じゃないんだから……そういう兄さんこそ、ちょっと老けたんじゃない?」

 ミシェーナとロッダは軽くお互いに抱き合う。そしてクルスに背を押されて、ユエリアは一歩前へ不恰好に飛び出した。
 陽除けのフードが弾みで背に落ちる。

 陽は完全に没してはいない。彼女の『茶髪』が風に吹かれて毛先が踊る。
 ユエリアは目の前で瞬きを繰り返すロッダに向けて、精一杯の笑顔を浮かべた。

「大地の加護を授かりに来ました……でしょ? ロッダ兄さん」

「その声、もしかしてユエリア? え? でも髪が」

 つり気味の薄茶の瞳が、今は驚きで丸くなっている。彼が混乱するのも無理はない。ユエリアは《大地の朋》という存在の証を偽っているのだから。

 唇に人差し指を立てて、彼女は斜め後ろに佇むクルスを一瞥する。視線を受けたクルスは、ロッダに『茶髪』の経緯を説明した。

「僕がヒアという方に頂いた壺の中身、染め粉だったようです。ですから彼女の『茶髪』は染め粉の色なんですよ」

「染め粉って、それ外の大陸から輸入しないと原料がナイって、聞いたことが……あー、そんなのどうでもいっか。とりあえず皆、中に入って」

 間を置かずにミシェーナが兄の脇を突く。

「宿、閉まってたんじゃなかったの?」

「家族が帰ってきたってのに、何で扉を閉めたままにしなきゃならないんだ。それに、ゆっくり話も聞きたいし」

 ロッダはユエリアが幼い頃別れた時とちっとも変わらない、『兄』の笑みで三人を迎えた。