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翠の香り 05
太陽が空の真中で輝く頃には、ユエリアとクルスは村にたどり着くことができた。
ユエリアは休む間もなく、《月光白花》の花弁を煎じる。手伝うと言ってきたクルスの手を断り、彼女は一人薬草師の小屋で暖炉の炎を見つめていた。
薬草師は病をこじらせた村人達を診ているため、彼女が薬湯を作る。湯が沸く時間がもどかしい。
ユエリアは溜め息を吐いて窓の外を見やる。
ユエリアの両親は、あの嵐の日に、殺された。
殺されていた、と言った方が正しいのだろうか。
彼ら二人は共に背部から脇腹にかけて、剣で裂かれた跡があったそうだ。後に村人の誰かがそう話していた。
ユエリアは彼を憎んだ。あの場には彼しかおらず、少年は確かに剣も携えていたではないか。しかしならば何故、彼はユエリアに手を下さなかったのだろうか。
母と同じ翠の髪をしていたのに、何故。
ユエリアは長い間煩悶を続けた。大地に問いかけても、大地は答えてはくれなかったのだ。そのことにまた怒りを覚え、彼女の心は次第に擦り切れていった。
荒れた彼女。そしてミシェーナは彼女を支える幹であり続けた。佇み、寄り添うだけの、癒しを与える存在。
ミシェーナと共に過ごす内に、ユエリアの心から怒りは少しずつ足を遠ざけていった。けれど哀しみはいつまでもわだかまったまま。
そんな時だった。彼――クルスが現れたのは。
暖炉の炎に包まれて薪が弾ける音に、ユエリアは緩慢に振り返る。火にかけている壺の中を確認する。大粒の泡がいくつも水面で踊っていた。
彼女は子どもの頭ほどの大きさである壺を暖炉から取り出すと、中身をあらかじめ用意していた湯呑みに注いでいく。
その作業を並んでいた湯呑み全てに行うと、最後に彼女特製の薬粉を一つまみずつ入れる。《月光白花》の場合はこれで、適度に冷ませば良いはずだ。
「これで、大丈夫。きっと皆、よくなる……」
彼女は一先ず肩の力を抜く。湯呑みの水面に映る自分の顔に怒りはない。ただ、哀しみの影がちらつくだけ。
『……、ごめん』
クルスは、あの時そう呟いていた。彼は一部だけだが記憶を取り戻し、彼女の両親の死と真実について思い出したのだろう。
涙が零れそうになる。彼はもう知っているはずなのだ。だのに。どうして彼は、まだユエリアに手を差し伸べてこようとするのだろう。
一刻も早くこの薬湯を届けなければならないのに。こんな、今にも泣き出してしまいそうな顔で訪ねて、ミシェーナに心を遣わせるわけにはいかなかった。
「どうだね、薬湯の調子は」
「! おじさま。すみません、今、煎じ終えたところです」
薬草師が部屋に入ってきたことも分からなかったことに、ユエリアは動揺を隠せなかった。
「どれ、かしてごらん」
「……はい」
渡された湯呑みに顔を近づけ、彼はふと訝しげに首を捻る。
「……。揺れておるな」
「え……あの、煎じ方が間違っていましたか?」
「そうではないよ。お前さんの心が揺れておるのだ」
「心? あたしの心が、ですか」
薬草師は頷き、「薬湯は問題ない」と言ってユエリアに返す。彼は曲がり気味の腰に拳をあて、部屋の隅、暖炉の斜向かいに鎮座している揺り椅子に腰掛けた。
「お前さんは今、迷っているのだろう?」
彼女は唇を引き結ぶ。
握り締めた指先がひどく冷たかった。小屋に染み付いた苦い香りを、胸に満たして。
「あたしは、」
ユエリアは告げる。
***
安らかな眠りをもたらすような、穏やかな夜更けだった。
星達と共に空に佇む蒼白い月。世界を優しく照らすその光が、窓から控えめに差し込んでいる。
ふいに、影が光を遮った。
干した薬草の苦い香りの満ちる中へ、僅かに甘い香りが混じる。古びた床板が小さく悲鳴をあげる音。他は静寂。
暖炉の炎はとっくに消えて、今は炭が熱を籠もらせているのみ。
扉の向かいにある寝台へと目を凝らせば、闇に浮かび上がる白い毛布が緩やかに上下しているのが分かった。
息を殺して近づき、利き手に持っていた布の塊に手をかける。黄ばんだ布を丁寧に剥ぎ取れば、錆一つない、手入れの行き届いた銀色が姿を現す。
清らかな月光を鋭く拒絶するそれは、手首から肘までの長さの短剣だ。
彼女は寝台の端に手を沈み込ませ――仰向けに眠る青年の上に身を乗り出した。
闇に慣れた目に、頼りない喉元はいっそう青白く映る。左手は彼の顔面のすぐ横へ置き、右手をゆっくりと青年へ下ろしていく。
その喉元に切っ先を定めて。
そうして、刃を濡らしたのは。
「どうして、泣いてるんですか?」
「――――!」
薄紫の瞳が、ユエリアを捕らえる。咄嗟に身を退けようとしたが、クルスはそれを許さなかった。
彼はユエリアの左手を強く掴んだ。均衡を失った身体は、容易くクルスの胸元へと崩れ落ちる。寝台がぎしり、と鈍い悲鳴をあげた。
彼女は辛うじて右手の短剣の軌道を逸らした。布ごしに、彼の温もりが伝わる。否、互いの体温が生み出したもの、なのだろうか。
「僕はあなたを、泣かせてばかりですね」
「……いつ、から」
気付いていたのだろうか。
「始めから。あなたが部屋に入ってきたので、寝たふりをしていました」
クルスの瞳を、息づかいが感じられるほどに近くで見たのは、これで二度目だ。
感情の見えない紫。ユエリアの涙が、刃を伝い彼の喉を濡らしている。
「どうして……! あたしは、あんたを殺そうとしたのよ」
「解っていますよ。でもあなたは、いつまでも僕を刺そうとしなかったでしょう」
手首を掴んだまま、クルスはもう一方の手でユエリアの髪を梳いた。
その手がやがて頬へと降りていき、くすぐるように指の背で撫でられる。
刹那、彼女は感情の波に震えた。この、衝動的に胸をぐちゃぐちゃに掻き回されるような。次々と沸き起こり、納まらぬ感情の名は。
憎しみなのか。それとも。
「僕が、憎いですか? あなたの両親を見殺しにした、僕が」
そう、クルスは剣を携えていたが、その剣は汚れのない銀だったのだ。
――初めから、そんなことは、知っていた。
彼女があの時無力な子どもだったように、彼もまた、そこにいた『誰か』を止められるほど、大人ではなかったのだ。
「憎かったわ。どうしようもないくらいに」
「だったら今、殺してしまえばいい。あなたが楽になるのなら」
「ならないわ」
「何故?」
急かす鼓動は、一体どちらの胸から聞こえるのだろう。
ユエリアは寝台の隅で沈黙する短剣をじっと見つめた。それは生前の父が護身用に持ち歩いていたものだった。
「……わからない。解らないわ。でも」
息を吸う。ただそれだけの動作が、苦しい。全ての大気から見放されたような気分だった。
「あんたを殺せない……殺したくないと、思ったの」
「ユエリア」
クルスに掴まれている手首に、さらに強い力が込められた。互いの熱が混じり合う。
ユエリアが身じろぎしたせいか、一房、髪が背から肩口へ零れ落ちる。若草色。翡翠色。異端の、色。
彼女は、躊躇いがちにクルスの肩に触れた。ただ、触れてみたいと思ったのだ。
自分のものよりも硬く、力強さを感じさせる。それだけだ。
それだけ。
だというのに、身体の奥を焦がすような痛みを覚えた。
「記憶を取り戻したことを、後悔している?」
「していませんよ。どうしてですか?」
彼は微笑みながらも、どこか苦しそうに瞳を歪める。
「後悔していたら、殴ってやろうと思っただけよ」
不思議そうに瞬くクルスの、手首を掴む力が弛んだ隙に、ユエリアは素早く身を退いた。
驚くほど簡単に、クルスは彼女を解く。
ユエリアは形見の短剣を拾い上げる。寝台から床へ。片足を下ろして、静まった冷たい空気を吸った。
「だってあたしは、後悔していないわ」
彼は、何を、とは問わなかった。その代わりに、名前を呼んで。
「ユエリア」
両足が床に触れる。
木の、軋む音。
「ユエリア……!」
腕を引かれて、振り向かせられた。月光を取り込むクルスの紫の瞳が、あまりにも近くにあったせいだろうか。甘い熱を帯びているように、彼女は感じて。
そう思った時には、瞼の上に柔らかな温もりがあった。
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