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翠の香り 04  









 あの時、もっと早く手を伸ばしていれば。
 もっと早く、追いついていれば。

 後悔の淵で、嘆くこともなかったのだろうか。



***



 本当は、ついて来てはいけなかった。嵐は子どもには危険だから、と諭されていたのだ。
 だから少女は、家で留守番をさせられていたはずだった。しかし彼女は、両親が忘れ物をしていることに気付く。それがとても大切な物だとよく知っていたので、瞬きをする間迷ったものの、彼女はそれを持って家を飛び出したのだ。

 横殴りの冷たい雨。
 少女は両親を追うために、大地の力を借りた。彼らは少女にいつでも優しいから。

 少女は森の中を彷徨い、ほどなくして二人の姿を認めた。けれど普通に声をかけるのでは面白くない。
 八つの《涙月》を迎えたばかりの少女は、両親を驚かせてやろうと黙って近づき、抱きつこうと思った。
 息を殺して後を追う。
 そして、手を伸ばす。

 その手が届くことはなかった。

 彼らは叫ぶことなく、抵抗する余地もなく。両親は彼女に背を向け、腹這いになっている。彼らの脇から暗い赤が地面に染み込んでゆく。

 いくな、と大地は彼女に囁いた。だがそれは辺りで誰かが言い争う騒音に掻き消される。
 ふらふらと生まれたての子鹿のような足取りで、少女は両親に近づいた。今まで仲睦まじく談話しながら歩いていた両親は、少女が傍らに膝をついても、どちらも無言である。

「誰かいるのか」

 両親に触れようとしていた少女は聞き慣れない誰何にびくりと身体を凍りつかせる。
 にげろ。大地が彼女に囁きたてる。しかし耳を裂くような雷鳴が響き、彼女の心に届くことはない。

 足音が大きくなる。
 やがて少女は稲光に照らされ、己の姿を否応なく曝けだす。麻痺してしまったような緩慢な動作で、彼女は『彼』を見上げた。
 暗い場所でも尚明るい、陽光のような金髪。黄昏を越えた夜待ちの、薄紫の瞳。彼は少女より少しだけ年上の少年だった。
 右手に鈍く光る銀色を携えて。

「何だ、子ども……いや、翠髪の……」

 彼は刹那和らいだ表情を硬くする。彼は少女の翠髪を目にして、そうしたのだろうと、彼女は後になって思うようになる。
 だが少年がそのような面をしたのは一瞬のみで、それからは哀れむように少女を見下ろしていた。

 彼は左手を右手に添えるようにして、剣を持ち上げた。
 再びの雷鳴。
 森のどこかで雷が落ちた。凄まじい轟音と同じくして、彼は形の良い唇を開く。

「……、ごめん」

 剣は降ろされた。
 鋭い切っ先が少女の喉元まで。

 だが、それだけだった。
 呆然とする少女に彼は僅かに顔を歪めると、剣を引き鞘に戻す。
 少年は少女を振り返らずに走り去った。

 大地の囁き声が聞こえなかったにも関わらず、少年の擦れた囁きはいつまでも少女の心にわだかまったままだった。

 そして彼女は目を覚ます。



 洞穴に差し込む光は、彼女の瞼をやんわりと撫でた。しかしそれでも目覚めないユエリアの頬に、直後生温かいものがぺちゃりと押しつけられる。

「……ん」

 生温かい『それ』は、今度は唇の端をくすぐった。
 さすがのユエリアも堪らず飛び起きる。掛けられていたのだろう外套が、彼女の脇にずり落ちた。

 正気の定まらぬ彼女に、『それ』は近づくともう一度頬に触れてくる。翠の瞳いっぱいに、山鹿の姿が映し出された。

「もう、くすぐったいわ」

 ようやく意識のまとまったユエリアは、微笑んで山鹿の額をそっと撫でる。
 差し込んでいた朝日を遮って、聞き慣れてしまった声が降ってきた。

「随分と懐かれていますね」

 振り返らずとも分かる。クルスだ。

「昔からあたし達、大地を朋とする人間は、山の獣と相性がいいと聞くわ。だからでしょう」

「そうなんですか。ところで、具合はどうですか。寝息も聞こえないくらい静かでしたよ」

「! ……ずっといたの? 近くに」

 躊躇いがちな問いに、彼は苦笑しながら頷いた。
 ユエリアはやり場のない感情を隠すように目を背ける。ちょうど視界に捉えた穴の外は、曇り一つない青空が広がっていた。嵐は過ぎたのだ。

 《月光白花》がきちんと花を保っているのを確認し、ユエリアは安堵の息を漏らす。しかし彼女は同時に気を引き締めた。
 こうしてはいられない。早く村に戻らねば。

「もう平気よ。早く帰らないと、ミシェーナ達が待ってる」

 今は記憶がどうとか、そんな事はどうでもいい。病を治せるのは、この《月光白花》だけなのだ。
 二人はクルスが夜明け前に採ってきたという木の実を分け合い食事を終えると、村へ戻るために山鹿に別れを告げた。

 クルスはユエリアの前を歩く。彼女は彼女で、この辺りの土地勘があるので迷うことはない。だからユエリアは、彼がこうも迷いなく歩みを進めるのを、感心の思いでついて行く。
 彼はどうやら、目印として赤い布を細かく裂き、一定の距離を保って木の枝に結び付けているらしかった。

 村まであと半ばと距離を縮めた時、『それ』はあった。二人の行く道を塞ぐようにして、一本の大木が横倒しになっていた。
 昨夜の嵐で、落雷の贄となったのだろう。大木は彼らの腰ほどの高さで打ち砕かれている。焦げた匂いが、まだ空気に残っていた。

「これは仕方ないですね。回り道をしましょうか」

「待って」

「どうしたんですか。ああ、もしかして木を乗り越えるんですか?」

 ユエリアはかぶりを振ると、彼に《月光白花》の鉢を渡した。

「この木……まだ生きてる。生きたいって、言ってる。力を与えるわ」

 言いながら、彼女は早速片膝をつく。ユエリアは深く息を吐き出すと、精神の統一をはかった。
 瞳を閉ざす。長い睫毛が双眸に影を生む。
 すぐ隣の、怪訝そうなクルスの視線を意識から払い除け、ユエリアは詠唱を始めた。

「大地よ……」

 どこか詩を紡ぐ詩人のように、彼女は言葉に力を乗せていく。
 風もないのに、ユエリアの若葉のような翠髪が宙に踊る。

 クルスはその幻想的な光景を、ただ黙って見つめていた。

 柔らかな薄翠の光がユエリアの両手に生まれ、宿る。彼女はそれを躊躇いなく折れた大木の幹と僅かだが繋がっている部分へと触れさせる。
 途端に光は吸い込まれるようにして消失すると、同じく呼応するように光を浴びた大木が淡く輝いた。

 最後に指先で撫でると、彼女は何事もなかったかのように立ち上がった。
 大木は術を施す以前と何ら変化は見られない。

「もう大丈夫なんですか?」

「あたしが出来ることは、これでおしまいよ」

 クルスは理解することを拒むように首を傾げた。

「力を与えると聞いたので。てっきり何かこの前のように変化を起こすのかと」

 『この前』というのは、ユエリアが彼の王都出発の朝に見せた術のことを指しているのだろう。
 彼女はしばし無言で考えると、彼を真っ直ぐに見上げた。

「あの時はあんたに……あたしがどういう力を持った人間か、具体的に示さないといけないと思ったから……。だから、ああいう強行手段をとったけれど。本当は、今あたしが施したような『祈り』を用いるのが、大地の朋の在るべき姿なのよ」

「祈り、ですか」

 ユエリアは《月光白花》を彼から受け取ると、深く頷いた。

「あたし達は大地に祈ることで、彼らの媒介となることができる。さっきの『祈り』で言うなら、あの翠の光は、つまるところ大地の精力。それをあたしが魔力で形を成し、木に明け渡した。そんなところ」

「なるほど……?」

 ユエリアはけれど、その穏やかな翠の瞳を曇らせた。彼を通り越して、横たわる大木に想いを馳せる。

「でも……、壊れた命は、もう元通りには還らない」

「それは、どういうことですか?」

「在るべき形をねじ曲げられたから。だからあの木は、例え新たに再生したとしても、必ずどこかで歪みを生むでしょうね。大地はそれをよしとしない。変化がすぐに起きないのは、大地が一度命を溶かして、別の命を創るからだとずっと昔、両親から教わったの。そうして時間をかけて、ゆっくりと命は息を吹き返していく」

 彼女は瞬きをすると、空を仰いで顔をしかめる。
 一刻も早く村に戻らなければという思いが、ユエリアの感情を冷静に努めさせる。

「あの木は心が生きていたから、祈ったの。生きたいと叫んでいたから。ひとも同じ。――でも心か体のどちらかが死んでしまえば、同じ命はもうないのよ」

 それきり、村に着くまで二人はそれぞれが抱く思いに沈黙を重ねた。