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翠の香り 03  









 ユエリアの抱えている《月光白花》の葉末が、一滴の雫を弾いた。冷たい雨ではない。彼女の流した温かな涙。
 すでに雨粒で顔はぐしゃぐしゃに濡れていたが、それでも彼女は自分が泣いているという事実を遅れて理解した。
 喉の奥が熱を持っていて、焼けるようだ。それだけでも苦しいのに、涙は枯れることを知らない泉のように溢れて止まない。

「ユエリア……?」

 クルスが気遣わしげに名を呼び、繊細な細工物を扱うように彼女の涙を指先で拭ってゆく。
 涙の所為か彼の表情は分からないが、きっとクルスは戸惑っているのだろう。震える指先から伝わる彼の温もり。それは嘘ではないから。

(どうして泣いているの、あたし)

 きっと酷い顔をしているのだろうと思うと、ユエリアは俯かずにはいられなかった。
 クルスは暫しあやすように彼女の頭を撫でていたが、やがて遠く響く雷鳴を聞くと、ユエリアの手首を硬い手のひらで包み込む。

「風も強くなってきましたね……。そういえば来る途中の川岸辺りに、穴を見つけたんです、岩の。一度そこで休みましょう」

 彼は言うが早いか、ユエリアの置いておいた灯火を持ち上げ、手は繋いだまま歩きだす。
 古巣にたどり着くまで、彼はこちらを一度も振り返らなかった。振り返ったのかも知れないが、そんなことはユエリアにはどうでも良かった。
 ただ、繋がった手が、離れた後も冷めない熱を持っていた。彼女は唇を噛んだ。

 翠の香り濃い夜の森。木々の間に出来た獣道を抜け、岩肌の目立つ大地を越えてゆく。
 やがて小川のせせらぎを頼りに歩けば、そこはすぐに姿を現わす。
 背後を崖に守られた、獣の古巣。その周囲にはまだ若い細木が謙遜するようにまばらに生えている。
 足首までの浅い小川を渡りきり、先導しているクルスが古巣の中を覗いた。

「おや?」

「……どうかしたの」

 途中から歩くのに気を逸らされた所為もあって、ユエリアは大分落ち着きを取り戻していた。
 彼の脇から古巣の奥を伺い、彼女は納得したとばかりに気のない返事をする。

「先客がいたようね」

「どうしますか。まさかとは思いますが、追い払ったり……」

「するわけないでしょ。元々ここは生きものの共同宿みたいなもんなんだから」

 呆れたようにユエリアは肩を竦めた。

「共同の宿、ですか」

「そ。彼らもそれを承知のはずだから。一緒に休ませてもらいましょう」

 彼ら、と言って指し示された一頭の山鹿と二匹の山鼠は、特に構えもせずに二人の訪問者を見つめている。
 灯火の明かりに三対の宝石を輝かせ、静かに嵐が過ぎるのを待っているようだった。

「ほら、向こうも『雨の中ご苦労だったな』って言ってる」

「そうなんですか……? ああ、では失礼します」

 古巣は奥行きがあり、天井もクルスの背より遥かに高い。獣達より手前で、お互いの間を人一人分程の距離を空けてから二人は腰を下ろした。
 ユエリアは準備しておいた小さな鉢を荷物袋から取り出すと、そこに《月光白花》を丁寧に入れる。
 念のため、彼女は唇からそっと《月光白花》に吐息を吹きかけ、短く詠唱する。これも大地のまじないの一つだ。

「それにしても広いですね。雨が削ったわけではないようですが」

「ここはかつて《森の王》の巣だった。彼らは決して親鳥の巣は使わないから、今は空っぽなのよ」

 クルスは感嘆した。

「どうりで。とすると、ここにいた主は……」

「きっともう、死んでしまった。だからこうして私達が恩恵を受けられるの」

 ユエリアは愛しげに岩壁を撫でる。ぱらぱらと落ち零れる石屑は、主の不在を悼む涙のよう。
 《森の王》はあらゆるものを食み、地に還し、そして育み守るのだ。

 涙はとうに乾いていて、彼女の頬から跡形もなく消えている。横目でちらりと隣に座る彼を見やれば、クルスの瞳が穏やかにユエリアの方へ向けられていた。
 ――ずっと見られていたのだろうか。
 たったそれだけのことに、彼女の心臓は飛び跳ねる。
 彼は懐かしい柔らかな陽射しのように微笑んだ。

「もう大丈夫ですね」

「……。さっきは、その……ごめんなさい」

 彼に弱さを曝け出してしまったことや、今まで見つめられていたことなど、様々な出来事を思い出すと自分の顔がみる間に熱を帯びていくのが分かる。
 ユエリアは慌てて彼からそっぽを向いた。
 その時だった。
 空一面を明るく照らしだす、閃光。

 ユエリアは身を強ばらせる。次に来る轟音を掻き消そうと、彼女は本能的に悲鳴を上げようとした。
 だが音となったのは落雷のみだ。
 半分開きかけていた彼女の唇を、クルスの手のひらが塞いでいる。

「目も塞いであげましょうか」

 そう問われても、彼女は頷くことも首を振ることもままならない。
 落雷への恐怖と、彼の行為に対する驚きがない交ぜになり、言葉が喉につっかえたままで。

「怖いんでしょう、雷が。だったら見も聞きもしなければ大丈夫ですよ」

 ユエリアはクルスの手首を掴み、引き剥がす。力が籠められていない為か、それは容易く成せた。
 息を搾り出すようにして、やっとのことで言葉を紡いだ。

「どう、して」

「あなたの父上と母上は……この嵐の中で命を落とされた。そうでしたね?」

「……そうよ」

 けれど、それは。

「あなたを迎えに行く途中で、一部ですが記憶を戻せたのです。その中にあなたもいました。あなたは、泣いていた……」

 再び暗闇を鮮やかに閃光が駆ける。いつの間にか二人の距離は無に等しかった。
 狭く凍てついた氷の中に閉ざされたかのように、微動だにできない身体。
 雷鳴に怯える翡翠の瞳を、クルスは自分の方へ向かせることで逸らせるようにする。

「その日も今と同じような嵐だったから、だからあなたは今もそんな風に心を縛られている。大切なひとを失ってしまったのなら尚更だ」

「ひとの、弱みを掴めて、嬉しい?」

 ユエリアは剥き出しの剣のごとく鋭利さで彼を睨んだ。だがそれもやがて弱々しく伏せられる。
 クルスはかぶりを振った。

「僕は――」

 彼はゆっくりと一呼吸する。その穏やかに上下する胸が、何故だかユエリアに落ち着きを与えた。

「あなたが傷つくくらいなら、僕は壊れたままでいいと、きっとそう思っていました」

 古巣の外から吹きすさぶ獰猛な風も、殴りかかってくるような激しい横雨も、空を駆け抜ける白き稲光も、全てが遠くの世界に感じた。

「ずっと逃げていれば良かったのよ。そうしたらあんたも、こんな風に呆れなくて良かったんだから」

「確かに、とても呆れていますよ……どうして黙っていたんですか。あなたが最初から僕を知っていたことを。壊れたままでは、僕はあなたの心に触れられません」

 ユエリアはクルスの澄んだ紫の双眸に吸い込まれるように、すいと面を上げる。
 彼の瞳に映るユエリアは、薄らと自嘲気味に笑みを浮かべていた。

「あんたが全然、何も覚えてなかったから」

「覚えていなかったから?」

「そう、そうよ。知ってほしかった、あたし達を! あたし達の村や森で暮らす獣達や、豊かな恵みを。そしていつかあんたが街へ戻り、老いて死にゆくその時まで」

 長い長い、その年月の中で。

「あたし達がどんな風に暮らしていたのか知って、そして一瞬だけでもいい。思い出してくれることがあるなら」

 変わるかも知れない。
 大地を操るのではなく、大地を朋とする、同じ人間なのだと気付いてくれたなら。どこかで何かが変化するかも知れないと、ユエリアは思ったのだ。

「そうしたらいつか……ずっと後でもいいから、あたし達を解ってくれる人間がひょっこり現れるかも知れない。ああ、そんな甘い幻想をあたし、考えていたのね」

 クルスを村へ連れたのは、どこかでそんな風に思っていたからだろう。
 彼女は《月光白花》のみずみずしい花弁を指先でほんの少し触れる。花は指を受け入れ、そして押し返してくる。
 ユエリアは愛しげに目を細めた。

「どこまでも勝手だった。……どこまでも。……でも」

 視界が緩やかな闇に包まれてゆく。既に空の咆哮も奔る光も、彼女には感じられない。
 重いな、と彼女は思った。身体を循る血が全て鉛と化したのではないか、と錯覚してしまう程に。そして奥底で蹲る凍えとは裏腹に、肌は妙な熱っぽさを抱えていた。

「ユエリア?」

 彼はお互いの睫毛が触れ合うくらい間近で、ユエリアに囁きかける。だが続く彼女の言葉は、声になることはなかった。

「――――、――」

 ゆっくりと、老いた大樹が根元から倒れ伏すように、ユエリアの身体は冷たい地面に投げ出されていった。